小夜嵐

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ほっとけ 36 


 雑誌を玄関に置いた恭二は、山本が風呂から出るのにあわせてお茶を淹れるためのお湯を沸かした。
 やかんに水を入れ、火にかける。ガスの元栓を閉めるのを忘れないようにしないとな、と、チェックリストに項目を追加する。
 そのまま思いつきで、チェックリストを持って各部屋に行き、片付いてないところを調べ、何か忘れているところはないか、入念に見て回った。一渡りチェックがすんだころ、山本が呼ぶ声がした。
「どうしました?」
「やかん、もう湯気上がってるぞ」
「あ、すみません。チェックリスト作ってたら、うっかり」
「仕方ねえなあ。これどうするんだ?」
 もくもくと湯気を噴くやかんを手にぶら下げて、山本は所在無さげにしている。
「一息ついたんで、お茶でも飲もうかと思って」
 言いながら鍋敷を出す。やかんが落ち着いたところで、恭二は虹色の袋を取り出した。
「これ、薫さんがおみやげにくれたお茶なんですけど」
 一人で飲むのは心細く、かといって一度も飲まずに捨てるなどもってのほかだし、あるいはただ取っておくというのも申し訳ない気がして、それならいっそここで山本と飲んでしまおう、と考えたのだった。
「へえ、薫さんが?」
 なにやら興味深げに袋の中を注視する。
 くつろげられた口からは、怪しげな黒色がのぞいていた。ぷうんと鼻を突く革命の香りがギロチンを連想させる、落剥した高貴なにおいが漂ってきた。
「……おいしそうだな」
「……そう思います?」
「いや、なんていうか、不思議な世界につれてってくれそうな予感がする。ほら、アリスのお茶会っぽい無邪気な狂気を感じるよな? この虹色の袋もトリッキーでいい」
「大丈夫ですか、先輩。何か無理してませんか?」
「いや、してないって。大丈夫、大丈夫。じゃ、飲もうか」
「本当に飲むんですか?」
「何言ってるんだよ、おまえが出してきたんだろ」
「そうですが、先輩もチャレンジャーですね」
 山本が湯飲みを用意している間に、恭二は急須に茶葉をふた掬い投入し、やかんからお湯をとろとろ注いだ。茶葉を蒸らしながらあがる湯気を吸い込むと、思いがけず陶酔してしまうような魅惑的な香気が鼻腔に飛び込んできた。
「あれ、これって、けっこういいお茶なのかな?」
 急須を傾けると、真っ赤な、むしろ黒に近いとろみのある液体がほとばしった。
「湯飲みの選択を間違ったかな」
「ちょっと、補色でしたね」
 深く苔むす沼色をした侘びのある湯のみだったのだが、まさか紅い飲み物を注がれるとは思っていなかったのだろう、液面がとまどったようにとろりと揺れている。
「でも、いい香りじゃないか?」
「そうですね、こんな香り嗅いだことありません。濃い、脳髄にぶちあたるみたいな」
 実際軽い頭痛が起こっていたのだが、それは体が発した危険信号だったのかもしれない。だが、二人はそのことを、さして気に留めなかった。
「では、いただこうか」
 山本が胸いっぱいにお茶の湯気を吸い込んで、軽く咳きこみながら湯飲みを手に取った。恭二もそれに倣う。一口すすると、さらに強い香りが体中に染み渡っていくようだった。
「……なんか、舌しびれませんか?」
「うん、香水飲んでるみたいだな」
 一口飲むほどに、部屋の中のにおいがむせかえるほどに強くなっていく。
「これ、もしかして飲み物じゃないんじゃ……」
「薫さんがお茶だって言ったんだろ? なら、お茶でいいんじゃないか?」
 眉間に皺を寄せながらも、湯飲みを傾ける山本は、ふと思い出したように、
「……知ってるか、坂上。パリの貴婦人は、その昔香水でうがいをしたらしい」
「口臭対策なら、普通に歯を磨いた方がいいと思いますが」
「バカだなあ、貴婦人だぞ。吐く息の中になんともいえない妙なる香が、というのが、色っぽいに決まってるだろう」
「俺は嫌です。気分悪くなりそう」
 まだ湯飲みの中は半分も減っていないが、やつれた顔色で恭二は言った。意味もなくテーブルの上に視線をさ迷わせていると、先ほどできあがったチェックリストが目に付いた。
「あ、そうだ。先輩も、これ確認しておいてください」
「んー」
 どこか焦点の定まらない目で、山本は紙片を受け取る。
「いいんじゃないか、これで」
「漏れはないですか? じゃあ、あとはのんびりして、月曜の朝にゆっくりチェックして……それで、ええとー、……それだけですよね、先輩?」
 こめかみの下の血管が徐々に存在を主張してきていた。どくんどくんと脈に皮膚を引っ張られ、親指で押さえるが主張はやまない。山本もリストを見ながらだるそうに唸っている。
「んー」
 山本の手が急須にかかるのを見て、恭二は彼の湯飲みの中を確認した。空である。
「先輩、あの、二杯目は止めといた方がいいです。ていうか、よく飲み干せましたね」
 恭二の湯飲みにはまだ半分以上紅い液体が残っている。それを見て取った山本は、ぐいと湯飲みを恭二に押し付けてきた。
「お前も飲め」
「せ、先輩?」
「いいから、飲め飲め。飲みなさい」
 ぐい、ぐいと押し付けられる湯飲みから我が身を守りながら、恭二は「先輩どうしちゃったんですか」と叫んだ。山本はふらふらと腰の定まらない様子であったが、湯飲みを押し付けてくる力は強い。まるで酔っ払っているようだ。
「これ、もしかしてアルコールが……?」
 山本の湯飲みから逃れ、茶葉の入っている袋に飛びつく。くんくんと鼻を利かせてみるが、やはりかび臭い怪しいにおいしかしない。
「アルコールなわけないだろ」
 地の底から響くような音がした。振り返ると、山本がだらりと両手を下げて顔だけこちらに向けている。片方の手には、湯飲みが握られている。いつの間に淹れたのか、それにはお茶がたぷたぷに汲みなおされていた。
「先輩……?」
「薫さんが、酒なんかよこすわけ、ないだろ、な? 坂上」
「は、はい」
 同意を与えつつ、山本から距離をとる。今の山本は、いつもの山本ではない、そんな気がした。
「なあ、坂上……飲めよ。まあ、いいから飲みなさいよ」
「先輩……まさか、このお茶で……」
 山本の顔から、かろうじて残っていた理性が消えていった。額の辺りに残っていた堅さがゆっくりと緩んでいき、口元の辺りまでだるん、と落ちていく。汗は落ちない。脂汗なのか、てらてらと顔中を覆ったままで、それが魔物を表す仮面を形作っているようだった。
 魔物が、動いた。
「飲めええええ!」
「ぎゃー!」
 逃れようとしたが、普段から鍛えている山本の反射神経にかなうものではなかった。
 飛び掛られた恭二は、抵抗むなしく、無理やり顎を捉えられ、そこに湯飲みが迫ってくる。口中に流し込まれる強い香りにむせた。喉の奥を熱い塊がくぐっていくに従って、目玉の奥が破裂しそうに疼き、耳の奥で鼓動が大きく速くなっていく。飲みきれず、逆流してきた茶が鼻の穴を伝って落ちるのを感じる。
 恭二は、意識を失った。


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