小夜嵐

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萎びた林檎 

 テーブルの上に、林檎がのっている。
 町田くんが手に取ると、それは少しばかり張りをなくした感触を指の腹に伝えてきた。
「先生、この林檎、萎びかけていませんか?」
 まだ食べられるだろうか、という疑問を独りでは解決できなくて、傍らで書き物をしている人物に問いかけてみる。
 先生は手を止めて、万年筆のキャップを丁寧に閉めると、町田くんの方へ向き直ってくれた。
「どれどれ」
 林檎を受け取って、両手で挟み、そのやわらかさを確かめる。やがて結論がでたらしい。
「うん、そろそろですね」
「そろそろですか」
「そうですね」
「そろそろとは?」
「ん?」
「いつごろのことでしょう」
「そうですね、一両日中というところでしょうか」
「はあ」
 町田くんは一両日というのがピンとこなく、知らず眉根を寄せてしまった。困惑した表情のまま、
「ところで、そろそろとは?」
「うん?」
「何がそろそろなのでしょうか」
 先生はそうですね、と難しい顔をした。
「残念ながら、食べごろはすぎてしまっています」
 町田くんは少しかなしい気持ちになったが、先生は頓着しないやさしさを発揮して、かまわず言葉を続けた。
「食べごろはすぎていても、まだ食べられるでしょう。そろそろというのは、そろそろ食べないと食べられなくなってしまうのではないか、という推測です」
「そろそろ、ですか」
「そろそろですねえ」
 町田くんは林檎を返してもらって、手のひらの上で転がした。指先をやんわり受け止めてしまう、そのやわらかさが頼りなく感じる。
「どうしましょう。剥きましょうか」
「そうですね。ナイフを用意しましょう」
 先生は立ち上がると、シンクのほうへ行った。ナイフが見つからないらしく、あちこちを引き出したりしてごそごそ探している。
「やあ、あったあった」
 陽気な声と共に先生が取り出したのは、ナイフではなく、一抱えほどの網のようなものだった。
「それは?」
「これは、魚などを干すときに使う道具です」
「はあ」
 魚を干す道具など、何にするつもりだろうか、町田くんは生返事を返してしまう。
「それが、何か」
「実は、まだ未使用なのです。だから、生臭くありませんよ!」
「はあ」
 先生は少しもどかしげに網を胸の前で上下させた。
「ですからね、その林檎を、干してみませんか?」
「これを、ですか?」
 町田くんは手の中の林檎を見つめる。赤い色が困惑したように視界をチラチラした。
「そうです。干し林檎というやつです」
「干し林檎……」
 食べたことはないが、なにやら美味しそうな響きだ。
「先生は、食べたことはありますか?」
「ないです。ですから、食べてみたいな、と今思いました」
「今」
「そうです! 是非、やってみましょう」
「はあ」
 先生はナイフとまな板を持ってきて町田くんの目の前に置いた。
「さあさあ、早く切って干しましょう。スライスするのは、なるべく薄目がいいと思います」
「う、薄くですか?」
 とりあえず皮を剥くものの、どのくらいの厚みにしたらよいものか困ってしまう。
「こ、このくらいでしょうか」
「いいんじゃないですか?」
 先生は網を広げて吊るす格好をしたりするのに忙しく、横目でちらりと適当に答えたきりで当てにならない。
 しょうがないので、町田くんは思い切ってサクサクと林檎をスライスしていった。全盛期よりもずいぶん薄くなった香りが、それでも指先にまとわりついてくる。
 先生が網を使いやすいようにテーブルに広げ終え、満足げに腰に手を当てて頷いた。それから5ミリ幅に切り取られた林檎を、「これはいい。なかなかの仕事ですね」と褒めてくれる。
「これでいいんでしょうか」
「いいんじゃないでしょうか」
 先生は機嫌よく林檎の一切れを丁寧に網の籠の中に並べていく。一段目が林檎の半分ほどで埋まり、二段目が残りの半分で埋まった。
 一個の林檎の切片で埋まった網籠を、先生は風通しのよい窓際に吊るした。
「これで、乾燥したら美味しく食べられますよ」
「はあ」
 町田くんは風で揺れるその籠を呆と眺めて言った。
「乾燥すると、美味しくなるんですか?」
「そうじゃないんですか? 旨みが凝縮されて、こう、ぎゅっと美味しく」
 町田くんは難しい顔をする。旬のすぎた林檎が、凝縮されたからといってそう簡単に美味しくなるものだろうか。
「それなら、旬のうちに乾燥させておくべきではなかったのかと……」
 先生はきょとんと町田くんを見つめた。
「ええとですね、美味しいうちに乾燥させないと、旨みも何もないんじゃないかって、思ったもので……」
「そうなのですか?」
 先生の頬が悲しみに下がるので、慌ててつけくわえた。
「いえ、ええと、残った美味しさが凝縮されてそのまま食べるよりは美味しいかもしれませんし、あ、そうだ。砂糖とかで煮てからだと更に美味しいかも!」
「煮るのですか?」
「煮るんじゃないでしょうか。まぶしますか?」
 町田くんは保存食作りにそう詳しくはない。先生は顎を捻っている。
「そこまでするのなら、いっそジャムやコンポートにした方がいいような気が……」
「ああ、ジャムですか」
「実は私、ジャムは少し苦手でして」
「あ、ぼくもです」
「そうですか! 気が合いますね」
「はあ」
 先生は網籠に干された林檎の切れ端をつくづくと眺めた。
「やはり、このまま乾燥させてみましょう。意外と、意外なほどに美味しいかもしれません」
「意外ですか」
「意想外だといいですね」
「そうですねえ」
 爽やかな風が室内に滑り込み、林檎から少しずつ水分が奪われていく。
 果たして美味しい干し林檎になれるのだろうか、それともただの乾いた林檎になるのだろうか。
 町田くんは剥き終わった林檎の皮をつまみ上げ、少しばかりの罪悪感を弄んだ。


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