小夜嵐

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雨と林檎 

 町田くんはひとつの林檎を前にして呆然としていた。
 何かをしなければならない気がするのだが、それが何なのか判然としないのだった。
「町田くん、町田くん」
 先生がドアを開けて楽しげに足を鳴らした。
「雨が降ってきましたよ」
「そうですか」
「久しぶりの雨ですよ」
「六月ですから」
 町田くんの気ののらない様子に、先生は気遣わしげにそろそろと傍に寄った。
「気鬱ですか?」
「いえ、特に」
「せっかくの雨なのに」
 言われてみれば、しとしとと湿った音が耳に入ってくる。
 雨音に気づくと共に、室内が急に灰色がかって見えてきた。目の前の林檎の赤が鮮やかに過ぎる。
「雨、お好きですか?」
「それはもう!」
 白衣の裾が楽しげに翻った。
「雨はいいです。わくわくします。心躍ります。眠くなりますね!」
「なんだか矛盾しているような」
「そこが素敵なのです」
「そういうものですか」
「そういう人にはそういうものです」
 先生はそこまで主張すると、ふと動きを止めて町田くんの頭頂部から林檎にかけてを見下ろした。
「町田くんはさきほどから林檎ばかり見つめて何をしているのですか?」
「セリフが長いですね」
「質問を一息に込めて気を使ったのです」
「お気遣いどうも」
 林檎はほのかにいい香りを放ちながら微動だにしないでいる。それを先生がすっと掬い取った。
「あ」
「いい香りですね。雨の日にふさわしい」
「返してください。齧らないでくださいよ」
「そんなことはしませんよ。失礼な」
「すみませんでした。今の先生はそんなことをしかねないように見えたもので」
 先生は腋を開けるようにして自身を見つめなおした。不安げに、
「今のわたしはどんなふうに見えているのでしょう」
 と問うので、町田くんは「さあ」と答えておいた。
「最近の町田くんはなんだか冷たいような気がします」
 先生はしょんぼりと町田くんの対面に腰掛けて林檎を真ん中に置いた。
「いつも通りですよ」
「そうでしょうか。今の町田くんは、この林檎にかける情熱の半分もわたしに注いではくれていない、そんな気がします」
「林檎に情熱を注いだ憶えはありませんが」
「忘れてしまったのですか? あの熱き血潮が迸る日々を。林檎にかけた青春を」
 町田くんは己の青春を思い起こそうと三秒ほど努力した。
「なんのことでしょうか」
「口からでまかせです」
「だと思いました」
「やっぱり、なんだか冷めているようだ」
「先生が熱くなりすぎていらっしゃるのでは? いつもと違うような気がします」
「そうですか? いつも通りですよ」
 町田くんは、明らかに違うように思いはしたが、いざ言葉にしようとすると、普段の印象がほろほろと崩れるようになって形にならないのだった。
 それに加え、いつもの自分はどうだったろうか、と考える。こちらもやはりうまく形になってはくれなかった。
 先生と自分の真ん中に置かれた林檎に手を伸ばした。人差し指で軽くつつく。林檎は安定した構えを崩さない。まるでこの世でたった一つ存在するものののような手ごたえを感じた。
「確かなものですね」
 林檎の表面は硬く張りがあり、強めに押すと内部の柔軟を感じさせる芳香を放つ。
 ちょんちょんとつついていると、「そんなにつつくと味が悪くなりますよ」とたしなめられて手を引っ込めた。
「食べないんですか?」
 聞かれて初めて考える。食べるべきだろうか。
「……まだ、いいです」
「食べるのでしたら、ナイフを持ってきますよ」
「まだ、いいんです」
「そうですか」
 林檎を見つめる。甘酸っぱい香りが鼻先をくすぐってくしゃみが出そうになった。
「……先生、食べますか?」
 数拍の後に、「いいえ」というこたえがあった。
「いい香りですね」
「はい」
「スケッチでもしてみますか?」
「スケッチ?」
「はい、画用紙ならありますよ。確かそのあたりの棚に……」
「ああ、いえ、絵はいいです。あまり得意ではないので」
「そうでしたか。苦手でも、たまには描いてみるのもいいものですよ。気分転換などにも最適です」
「そういうものですか」
「そういうものですよ」
「先生がお描きになったらいかがですか」
「わたしは遠慮します」
 町田くんに不思議そうに見られると、先生はわずかに照れくさそうにした。
「……下手なもので」
 つられるようにして、町田くんも、なぜか少し照れてしまった。
「そ、そうですか」
「絵心がないもので。お恥ずかしい」
「いえ、そんなことは」
「いやいや、もし絵が描けたなら、いろいろなものを形にできたのに、と残念な気がします」
「形に?」
 町田くんは目の前の林檎を見つめた。既にある形を形にすることにどんな意味があるのだろう。
「それは残念なことなのですか?」
「そう感じる人にとっては」
 林檎を強めにつついて少し揺らしてみる。
「形を留めておきたいのですか?」
「そうですね、そういうむきもありましょうか」
「先生は違うのですか」
 少し考え込むようにした後で、極めて平坦な調子で先生は口を開いた。
「見つめなおすことをしたいのかもしれません」
「何を?」
 町田くんの問いに、にっこりと笑って「そこに在るものを」と言うので、それについて考え込んでしまった。
 気がつくと雨の音が止んでいて、代わりに何かの鳥がちいちいとさえずるのが聞こえる。光が差し込んできて、湿気を追い払うような輝きで室内を満たした。
 先生が窓に近づいてガラス戸を引きあけた。涼しい風がすっと舞い込んでくる。
「晴れそうですね」
「またすぐ雨になります」
 先生が嬉しそうに言った。
「梅雨ですからね」
「梅雨がお好きですか」
「雨が好きなのです!」
 雨上がりの、露を含んだ紫陽花たちをうっとりと眺めながら、先生はすうっと大きく息を吸い込んだ。
「町田くん、世界がいい香りで満ちていますよ」
 言われて少し鼻を利かせてみたが、新鮮な湿気の匂いがするばかりだった。
「埃くさいような」
「しっとりした絹のような空気です」
 人が変われば感想も変わるようだ。町田くんは林檎を手にとって匂いを嗅いだ。林檎の皮の匂いがした。
「町田くんは雨よりも林檎がお好きなようですね」
「いえ、……まあ」
「いつまで林檎を弄んでいるつもりですか?」
 町田くんは少し鼻白んだ。
「別に、そんなつもりでは」
「では、どんなつもりなのです? 食べるのですか? 食べないのですか? いつまでもそこに留め置きたいのですか?」
 町田くんは林檎を机の上へと転がした。林檎はくるりと半回転して落ち着いた。
 赤く濃淡のついた色彩が豊かで、目に鮮やかだ。見ていると少しだけ元気が出てくるような気がして、
「そう……ですね、ここにあれば、とは思います」
「いつまで?」
「……さあ」
 腐るまでだろうか。それともそれまでには食べてしまえるだろうか。
「美味しいうちに食べてしまったほうがよいのでは?」
「まだ大丈夫ですよ」
「それはどうでしょう」
 陶器が軽く触れ合うような音がしたので、目で白衣を探すと、先生が茶器の用意をしていた。薬缶の底をやさしく水が叩く。
 コンロに薬缶を据えて、先生は火を点した。ぼっ、という力強い音に、部屋が励まされるように揺れた気がした。
 だが、コンロの火だけでは湿気は払えない。しんしんと押し寄せる水分に、林檎の表面が侵されているようだった。
「梅雨ですね」
 机の上を指先でなぞる。なぞった形に水滴が玉を作る。一体湿度は何パーセントにまで達しているのだろうか。
「梅雨ですよ!」
 先生は嬉しそうに茶葉を掬い取って「やあ、湿気っている!」と声を上げた。
「大丈夫、味に問題はありませんよ」
「それは確かですか?」
「推測にすぎません」
「希望的観測というやつですか」
 先生は笑いながらサクサクとお茶の準備をする。やがて湯気の上がる湯のみが二つ机の上に運ばれてきた。
「本日は緑茶ですよ」
 暖かい湯気がふわふわと二人の間に立ち込める。
「ありがとうございます。いただきます」
 湯飲みを両手で挟むと、指先が熱すぎるように感じて、しばらくは暖を取るにとどめようと手をかざしている。
 先生は躊躇なく湯飲みを手にとって傾けている。
「のど、火傷しませんか?」
 そんな質問にちょっとだけ首を傾げて湯飲みを戻した。
「そこは口とか舌の心配をするところでは?」
 言われてなるほどとも思ったのだが、
「いえ、見る感じ丈夫そうだったので。ごくごく飲まれていたので、のどの方が心配になったのです」
「なるほど」
 先生はのどをさすった。
「なんともないですよ」
「丈夫ですね」
「少しずつ鍛えたのです」
 先生はちょっとばかり肩を後方に下げて胸をそびやかせた。
「それはお強いですね」
「まはは」
 変な照れ笑いをされて、町田くんは強いのどが少しだけうらやましくなった。
 思い切って湯飲みをつかみ、少しだけ啜ってみる。
「あちち」
 お茶はまだ熱く、これをのどに注ぎ込む勇気はでそうにない。唇と舌の先が少し焼けてしまったようだった。
「無理してはダメですよ。今日は雨ですし、少々冷え込みますから、あったまりながらちょっとずつどうぞ」
「はあ」
 ほっとしたような情けない気持ちで、町田くんは湯飲みを戻した。
 ほかほかした湯気が町田くんの顔を慰めるように撫でていく。湿気でうるんだ頬を袖で拭う。
「泣かないでください。きっとそのうち、熱いお茶くらい一気飲みできるようになりますよ」
「泣いてはいません。あと、一気飲みはさすがに遠慮したいです」
「訓練するなら協力しますが」
「しませんよ、そんなわけのわからない訓練」
 先生が、心なしかしょんぼりしたようだった。
 わずかに落ちた肩に気づかない風をして、町田くんはお茶をゆっくり啜る。一口含むごとに暖まる体が、次の瞬間冷めていく。雨による冷え込みは予想以上に深く、熱いお茶を飲んでも、体温が上がることはなさそうだった。
「ちょっと寒いですね」
 と思ったら、窓が開け放たれたままだ。
「窓、閉めてもいいですか?」
 何を思って開けたのかわからなかったので、念のために許可を求める。先生はすんなり「いいですよ」と答えてくれた。
 カラカラと音を立てながら窓を閉める。ガラス一面を曇らせている結露がつうつうとこぼれ伝い落ち、町田くんの手の甲に雨の名残のような水滴を降らせた。
 外を垣間見ると、雨はすっかりとあがり、いつの間にか空には雲ひとつない。
 真上からの光に照らし出されて、山の端が七色がかかっていた。
「先生、虹が」
 町田くんは閉めかけていた窓を押しのけるようにして、吉報を知らせる。
 ものめずらしげな様子で、先生がのこのこと隣へ並んだ。
「どれどれ」
 町田くんの指の示す方向を確認して、眼鏡をかけなおしながら遠く山の後方を凝視する。すぐに発見できたらしく、破願して「虹だ」と町田くんを振り返った。
 ふいに、以前にもこんなことがあったような気がした。
「先生、前にも虹を見ましたか?」
「ええ、何度か」
 いぶかしげに訊ねる町田くんに、先生は屈託がない。
「いえ、そうではなくてですね」
「そうではないというと?」
「つまり、ええと、個人の経験ではなく、共通の経験があったような、そんな気がして」
「共通、というと……町田くんと、わたしの、ということですか?」
「はい」
「つまり、二人で一緒に虹を見たことがあるか、という?」
「いえ……どうだったか……」
 町田くんは今しがた感じたことを言葉にしようと脳内を賢明に探した。
「前のときは、先生が虹を見つけてくれたのだと思いますが」
 考え考え喋ると、先生は興味深そうに耳を傾けてくれた。
「そんなことがありましたっけねえ」
 小首を傾げるので、
「ええ、前は先生が教えてくださったような」
「そうでしたっけ」
「違いましたっけ」
 煮え切らないない相手を横目で見ると、先生は遠く虹のほうへ向けて目を細めていた。湿った風が渦巻いていて、町田くんは鼻先をくすぐられくしゃみを発した。
「これはいけない。冷えてしまいますね」
 先生がすっと手を伸ばして窓を閉めた。結露の張り付いた窓ガラスに遮られて、虹の形は判然としなくなる。少し惜しむような気持ちで肩越しに目をやると、町田くんは先生の後に続いて席に戻った。
 お茶はぬるくなっていた。


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