小夜嵐

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 町田くんはベッドにぼんやりと腰掛けていた。
 空が見たいな、と思う。四角い壁に切り取られていない、果てのない空だ。
 いつか見たことがあったような気がする。それがいつのことなのか、もう思い出せなかった。
「町田くん、オレンジジュースがありますよ」
 飲みませんか、と先生が声をかけてくれる。カーテンの上に浮かび上がった影に、町田くんは体の中が縮むような感覚を覚えた。
「……いいえ、今はけっこうです」
「そうですか」
 断ると、影は軽く返事をして去ってしまった。安堵とかすかな寂しさを同時に感じる。
 一体、どうしてしまったのだろうか。町田くんは自身の変化についていけず、枕に覆いかぶさった。
 空が見たい。
 外に出られるだろうか、カーテンの中から外の様子を窺おうと耳をそばだてる。先生は机に向かって何か書き物をしているようだ。ペンが紙に擦れる音がしていた。
 町田くんは音を立てないように細心の注意を払い、そっとベッドから降りた。裸足の足が床に触れてひんやりした。
 窓の鍵をゆっくりと外す。窓をスライドするとき、隙間を埋めるゴムがみちりと音を立てて腹の底がすっと冷えるような気分になった。慌てて耳を済ませる。書き物の音はまだ続いていた。
 脇や股にうっすらとういた冷や汗を感じながら、窓を開けるくらいでここまで気を使うことはないのだ、と思いなおす。気づかれたところで、ただ窓を開けていただけのことなのだから。
 人が一人通れるくらいの隙間を確保して、町田くんは窓の桟をまたいだ。
 空が瞬く間に広がっていく。
 狭い世界を頭の後ろに置き去りにしてきたような爽快感が町田くんを襲った。外だ。
 足を下ろすと、湿った土の冷たい感触がねっちりと足の裏を刺激する。雑草がくるぶしをくすぐるので、町田くんはちょっとばかりもぞもぞした。
 どこに行こうか。
 どこにでも行ける。そう思ったが、どこにも行けないような気もした。どこに行っても同じかもしれないとも思った。
 空を見上げると、高すぎる空に満ちた光の量に圧倒されて、目の奥にくらみを感じて手で顔を覆う。影の隙間から雲が浮んでいるのが見えた。
 しばらくの間、青と白を見続けているうちに、頬が濡れているのに気づく。涙がとめどなく溢れていた。
 なぜ泣いているのだろう、町田くんは疑問を感じたが、目が眩しさに耐え切れなかったのだろうと結論付けた。
「町田くん」
 背後から声をかけられて、振り向くと先生が窓から顔を出していた。
「靴を忘れていますよ」
 にっこりと微笑んで、こちらを見つめている。
 町田くんは足元に目をやった。裸足の足が地面から生えているようだ。
 前方を見る。紫陽花が周りをどこまでも囲っていた。
 自分はどこに行こうとしていたのだろうか。町田くんは紫陽花の青をしばらくの間眺めた後、踵を返した。
 先生の手を借りて窓から中へ戻る。
 乾いたタオルをもらって足を拭いた。驚くほどに汚れていなかったが、それでも土の欠片がぱらぱらとこぼれた。
「コーヒーでも飲みますか」
 声をかけられて、「いただきます」と返す、その声が平静で、町田くんはいたたまれなさを感じた指先がわずかに曲がった。
 先生は白衣の裾をふわりとさせてカーテンの隙間から出て行ってしまった。やがてコーヒーのよい香りが漂ってくる。
 町田くんは両手のひらに顔を埋めて少しだけ泣いた。


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