小夜嵐

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悩み 

 先生が悩んでいる。
 何を悩んでいるのかはわからない。が、頬杖をついて憂いに満ちた眼差しを横目で見るにつけ、その思うところが気になってしまう。
 町田くんはしばらくの間どうしたものか悩んでいたが、やがて先生が声をかけてきた。
「町田くん」
「は、はい」
 眉間の辺りに困惑めいた疑問を浮かべて、先生は「先ほどから気になっていたのですが」と言葉をつむぐ。
「はあ……」
「何を悩んでいるのですか?」
「はあ?」
 それはこちらのセリフだ、と町田くんは口を半開きにしたまま「せんせいこそ」と言った。少々発音の間が抜けてしまったがいたしかたない。
「私ですか? 私がどうかしましたか?」
「先生こそ、何を悩んでいらっしゃったのですか?」
 先生はきょとんと大きく目を見開く。
「悩みとは?」
「いえ、さっきから考え込んでいらっしゃったような」
「ああ」
 なんだそんなことか、と先生は心持顔色を明るくした。
「今晩の献立を考えていました」
「なんだそんなことでしたか」
「そうです。そんなことでした」
「悩みなんて、聞いてみると大した事ないものですね」
「悩みというよりは、町田くんの勘違いですよ」
「いやあ、すみません」
 部屋の中はしばし軽やかな笑い声で満ちた。笑いが落ち着いたころ、先生が再び口を開く。
「それでは」
「はあ」
「町田くんの悩みを聞かせていただきましょうか」
「はあ」
 町田くんは言われていることが理解できず、笑いの余韻を引きずって和やかな相槌を返した。
「どんな悩みを持っているんですか?」
「悩み、ですか」
 町田くんは考えた。
「とくに、ありませんが」
「今なにか悩んでいたのでは?」
「はあ」
 何を悩んでいたのだったろうか、町田くんは思い起こす。
「先生は何を悩んでいるのだろうか、と悩んでいました」
「私がですか?」
「はい」
「私が今晩の献立を悩んでいることを、町田くんは悩んでいたのですね」
「……そういうことに、なります、か?」
「なるほど」
「なるほど……?」
 先生は感慨深げに、町田くんは疑念を浮かべた表情でそれぞれの虚空を見上げる。
「それで」
 町田くんはよくわからない疑問を考えることを早々に諦め、問いかけた。
「今晩の献立は何に決めたのですか?」
「ああ、今晩は、シチューにしようかと、今思いついたところです」
「シチューですか。おいしそうですね」
「おいしいですよ。自家製のニンジンがそろそろ食べごろですから、ニンジンのグラッセも作りましょうか」
「それはいいですね。僕は何をお手伝いしましょうか」
「じゃがいもでも剥いてもらいましょうか」
「はい。まかせてください」
「お願いしますね」
 先生はにこやかに頼もしげな視線をくれると、立ち上がって戸棚からピーラーを取り出した。渡されたピーラーはあるかなきかの体積を手のひらの上に落とした。
「よいピーラーですね」
「自慢のピーラーですよ」
 流線状のフォルムが機能的なシルエットを形作っている。細身の線だけで作られたようないたってシンプルなものだが、赤い色が存在感をありありと示している。
 先生が横からずた袋を運んできた。中にはジャガイモがごろごろ詰まっている。いくつか取り出して、テーブルの上に置かれたそれらの上にピーラーをかざす。
 赤いピーラーは、ジャガイモにとてもよく似合っていた。
 ひとつ手に取って剥こうとして、洗ってからのほうがよいかな、と気づく。
「先生、ボールはありますか?」
「はい、ありますよ」
 シンクの下の戸棚を開けると、カラフルなボールが重ねてあった。そこからひとつ取り出すと、町田くんに渡してくれる。町田くんはさっそくジャガイモをボールに入れてシンクまで運んだ。
「ピーラーなんてどうでもいいんです!」
 突如叫んでピーラーをシンクに叩きつけた町田くんを、先生はびっくりした表情で見つめた。
「どうしたんです、町田くん!」
「こんなことしてたって、何になるんですか! 目的もない、ただひたすら過ごす毎日! 僕はもう、耐えられません!」
 顔を覆う、その脇からボールが落ち、ボールに入っていたジャガイモが四方八方に転がった。
「落ち着きなさい、町田くん」
 先生はやさしく町田くんの背に手を乗せた。
「ピーラーが気に障ったのですか?」
 いいえ、いいえ、と町田くんはかぶりをふる。
「僕はもう、どうしていいのかわからないんです。何をすべきなのか、それすらも、もう」
 先生は背に乗せた手を肩に移動し、元気付けるように軽く力を込めた。
「いいんですよ。たまには、そんな気持ちになることだってあります」
「……そう、でしょうか」
「そうですよ」
 トントンと体を叩かれて、額に溜まっていた汗が頬を伝っていった。
「信じられません」
「町田くん」
「何も信じられません」
 先生はもう一言も発せず、ただそっと町田くんの隣に寄り添っていた。


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