小夜嵐

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カフェオレ 

 町田くん、町田くん、と名前を呼ぶ声がした。
 そこがどこなのかはわからなかったが、どこかぬるりと暖かくて、光の届かない場所に近いところだ。大丈夫、まだ微かに見える。
「先生?」
 顔を上げると、そこには先生の心配そうな顔があった。眠っていたのだろうか、頭がだるい。悪い夢を見た後のように、胸の辺りがざわめいていた。
「やあ、おかえり」
 先生は安心したようににっこりした。
「どこかへ行ってしまうかと思ったよ」
「どこへ、ですか?」
 先生はいつものように「さあねえ」とはぐらかす。町田くんには、自分が何に捕らわれていたのかわからないでいた。
「ぼくは眠っていましたか?」
「うん、少しね」
 頬を撫でると、服の皺が移ったのだろうか、微かに筋跡を感じる。指先でそれをすりこむようにしながら、ここはどこだろう、と思った。
「珈琲か何か飲むかい? 今日はカフェオレにしようか」
「……はい」
 どこであるにしても、ここは安全な場所なのだろう、と感じた。
 薬缶がストーブの上で湯気を上げている。シュンシュンと湯が沸き立つ音が断続的に室内を揺るがして、それが心地よい振動を伝えている。
「先生」
「なんだい?」
 冷蔵庫から牛乳を取り出すのをぼうっと眺めながら、町田くんは、
「ぼくは、ここに居てもいいのでしょうか」
 と訊ねた。
 先生は振り返らずに、
「いいんだよ」
 と応えた。
 真っ白な牛乳をカップに注ぎながら、
「いいんだ」
 と呟いた。
 町田くんはむしろ本当にそれでいいのだろうかと考え込みながら、机の上に肘を立てて両手の人差し指の関節で眉間を押した。額の脂がぬめるのを感じて、いけないな、と思った。
「どうぞ」
 先生がぬるいカフェオレを出してくれる。牛乳を温めるのを忘れたのだろうか。
 それを少しずつ啜りながら、町田くんは先生の横顔を眺めた。
 妙に白いような、薄っぺらい顔だった。
 この人は誰だったろうか、ふとそんな疑問が浮んできて、町田くんは手の中のカップを見つめる。濃い茶色が淀んでいる。
 とろりとした液体を見つめているうちに、また眠くなってきた。
 もう何も考えられない。
 どこか投げやりな感覚に支配されながら、
「どこかに行かなければならない気がします」
 町田くんは呟いた。
 瞼が重くて数ミリ持ち上げるのも多大な努力を必要とする。だから先生の表情を確認できなかった。
 カップを押しやるように机に突っ伏した。眠りに引きずり込まれる。もうどうしようもない。
「どこかに行かなければならないのでしょうか」
 遠くの方でぽつりとそんな声が聞こえた気がした。


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