小夜嵐

スポンサーサイト 

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
trackback: -- | comment: -- | edit

テニス 

 町田くんは朝から具合が悪かった。
 腹の底が落ち着かないというか、体の中でモヤモヤしたものがいつまでたっても消えてくれない、そんな気分を持て余していた。
「救心でものみますか」
 先生が心配した風でもなくチャイを淹れている。町田くんは机に突っ伏したまま、
「それ、何に効きましたっけ」
 と訊ねた。「なんでしたっけねえ」と無責任な答えが返ってくる。
 町田くんは短く呻いた後、腕に埋めていた顔を上げ、少し姿勢をよくした。
「いいんです。薬を飲むような加減でもないので」
「ほほう」
 甘い匂いのするチャイがテーブルにセットされる。
 先生はいつも町田くんの対角線上に座る。町田くんの目の前には誰もいなかった。
「どのような加減でそのように?」
 少しばかり興味深げに言われて、漠然とした頭の中を急いで整理する。
「えっと、別に、いうほどのことでもないのですが、なんとなくもやもやするといいますか」
「モヤモヤ」
「はい、って、その、そういうモヤモヤではなく、こう、もっと軽いような、重いような、つかみ所がない感じのもやっとしたものが」
「もやっとするんですか」
「はあ」
「ホルモンのなんたらとか、そんな感じですかねえ」
「うーん」
 体の中のことはわからない。町田くんはなさけなさげに目を細めた。
「理由はないんですか? 欲求不満とか」
「ですから、そういうモヤモヤではなく」
「欲求にもいろいろあるでしょう。眠いとか怠けたいとかだらけたいとかさぼりたいとか、そういうもやっと感ですか?」
「……違うような気がします。あと、先生、後半全部元が同じではないですか?」
「これで微妙に違うんですよ。たぶん」
「曖昧ですね」
 二人は、チャイを口に含みながら、しばらくの間言葉の曖昧さについて思いをめぐらせた。
「そうだ、スッキリすることをすればよいのではないですか?」
 先生が名案を思いついたように顔を輝かせた。
「シンプルですね」
「シンプルイズベストですよ」
「スッキリすることとは、なんですか?」
「運動ですかね」
「……運動」
「いわゆる、スポーツですね」
「スポーツには造詣が深くなくて」
「テニスとか似合いそうですよ、町田くん」
「似合ってもできません。したことありません」
「ないんですか?」
 いわれて記憶を探る。ないようだった。
「ないと思います」
「そうですか」
「……ないと思いますか?」
「さあ」
 だんだん自信がなくなってきた。ここに居るときはいつもそうだ。記憶が薄らぎ、曖昧になる。何を体験したのか、何を経験しなかったのか、何が起こっているのかさえも茫漠とした時間の中に紛れ込んでしまって手探りしても見つからない。
 テニスボールを思い浮かべた。なぜボールが黄色いことを知っているのだろうか。なぜボールに入っているラインが白いことがわかるのだろうか。ふいにラケットに張られたガットの、見た目より固い感触が指先に蘇ってきた。
「先生」
「はい」
「ぼくは、テニスをしていましたか?」
「していましたっけ?」
 先生の顔を見つめる。先生はチャイのカップを傾けていた。眼鏡は白く曇っている。
「……眼鏡、拭いたらどうですか」
「拭いてもすぐまた曇ります」
 チャイを飲みきるまで、曇るままにしておくつもりだ。
 いつからここに居るのだろう、と町田くんは思った。この疑問を思い浮かべるのは、何度目だろう、と町田くんは思った。百回目な気もするし、初めてな気もした。
「……先生、ここはどこなのでしょう」
「どこなのでしょうね」
 先生はチャイのカップを飲み干して、眼鏡を曇らせたままお代わりを注いだ。
 町田くんの中のモヤモヤが、さわさわと揺れて町田くんに振動を与え始めていた。


戻る←  →進む

スポンサーサイト
trackback: -- | comment: -- | edit

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。