小夜嵐

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イソギンチャク 

 親に命じられてするお見合いなど、碌なものではない、と加奈は思っていた。
 恋愛至上主義の彼女にとって、お見合いそのものが仇のようなものだったのだ。
「そんなこといってたらいつまでたっても結婚できっこないわよ。あんた、嫁き遅れたいの? ていうか、もう手遅れに近いじゃない」
「ほっといてよ!」
 叫んではみたものの、母の言葉に傷ついた心を抱え、命じられるままに屈辱のお見合い場所に引きずり出されるほかはなかった。
「結婚したいんでしょ? なら、あたしのいうこときいてりゃいいの。大丈夫、ちゃんとした人だから。まかせなさいって。あんたはにこにこしてればいいんだから」
 命令というよりは、次から次へ繰り出されるパンチのような言葉に翻弄されたようなものだろうか。ボクシングでいうなら、母はフライ級チャンピオンだった。
 段取りをあっという間に決められてしまい、そうなっては会わないうちから断るのも角が立つということで、加奈は仕方なく待ち合わせの場所へ重い足を運んだ。わざわざ仕事を休んでまですることか、と思うが、先方にも休ませているのでドタキャンするわけにもいかない。
 親兄弟が立ち会うようなお見合いは今時堅苦しい、ということで、会うのは最初から二人きりだ。
 これでは、単なる親公認の出会い系ではないか、などと胸の中で悪態をつく。
 指定のカフェに辿りつくと、息をひとつ吸い込んで扉を開ける。ドアについたベルがカラカラと陽気な音を出して加奈の胸をざわつかせた。
 店内を見回す。平日の昼なせいか、あまり人がいない。ざっと見たところ、それらしき男性もいない。ウエイトレスが出てきて案内してくれるので、「あの、待ち合わせなのですが……」と訊ねてみる。やはりまだ来ていないようだった。
 案内された席に座ると、頼んだ珈琲が運ばれてくるまで店内を観察した。
 渋い色合いとアンティークの内装が目に心地よい、ずいぶん落ち着いた味わいのあるカフェだ。こんな見合いの席でなければ、もっとゆっくりくつろげたろうに、と思うとなんだか悔しくなってくる。
 やがて運ばれてきた珈琲に早速口をつける。悪くない。
 二口ほどを飲み干したころ、「あの」と頭の上のほうから声をかけられた。
「高野、加奈さん、ですか?」
 見上げれば、そこには細面の品のいい青年が立っていた。
「あ、ええ、はい」
 心の準備ができていなかった、わけではないのだが、美味しい珈琲の前で少し無我の境地に近づいてしまっていたせいだろうか、少々どもってしまう。時計を確認すると、時刻どおりであった。
 青年は屈託なく「ああ、やっぱり」とにっこりして「ぼくにも珈琲をください」とウエイトレスに頼むと目の前の席に座りかけ、思いなおしたように、
「座ってもよろしいですか?」
 と加奈にたずねた。
「ええ、えっと、どうぞ」
 我もなく頬が潮紅してくるのを感じ、加奈は珈琲に視線を落とす。
 別に好みのタイプというわけではないのだが、こう上品な態度に出られるとついドギマギしてしまう。
「ちょっと遅れてしまったでしょうか?」
 加奈の方が先に来ていたことを気にしてか、心配そうな顔で聞いてくれる。
「い、いえ、私、いつも早めに着いてしまうもので……」
「そうですか。良い習慣ですね」
「いえ……」
 本当をいうと、たいていは遅刻気味なのだが、加奈にはなぜ自分がこんなつまらない嘘をついてしまったのか理解できないでいた。今日遅刻しなかったのは、嫌なことを早く終わらせてしまおうという覚悟の現れでしかなかったのだ。
 なのに、と伏せていた目をちらりと見上げる。にこりと微笑まれ、慌てて目線を少し下げる。目についた、ほっそりした品のよい顎が育ちを物語っているかのようだ。
 いかん、と加奈は自分を戒めた。加奈の好みは、もっとがっしりした男らしい男だったはずだ。顎なんかも、もっとごついほうがいい。色はもっと浅黒いほうがセクシーだし、腕ももっと太くないと嫌だ。
 彼は品はいいけれど、薄い体つきで頼りないし、手も女の子みたいに華奢だし、まつげは長すぎるし、頭にはイソギンチャクが乗っている。
「ん?」
 加奈は目をかすめた物体に違和感を覚え、さっと顔を上げた。
 頭にはイソギンチャクが乗っていた。
 彼の頭の上、ど真ん中に、赤くオレンジで白の縞々と熱帯の雰囲気を伴って、それはゆらゆらと、まるでそこが海中であるかのようにゆれていた。
 加奈はしばらくそれを凝視し、彼の背後をうかがった。
「どうしました?」
 彼が不思議そうにこちらを見るので、「水槽が、ないかな、と、思いまして」と切れ切れに答えた。
「水槽?」
 この店にそんなもの、あったかなあ? と辺りを見回す彼の後ろには作り付けの座席だけで、座席と座席の間に水槽が挟まれている、などという仕掛けはない。
「……いいえ、見間違い、だった、かな……?」
 言ってはみるものの、彼が辺りを確認している間中、彼の頭の上ではイソギンチャクが彼の動きに合わせてくりくりとその向きを変えていた。
 加奈は珈琲のカップを取り上げ、一口飲んだ。
 窓の外を見る。ここは窓から離れた席なので、ちょうど店内の半分を見渡せる。誰も何も言わないし、こちらを見ない。騒ぎは起きていない。窓の外は、通り雨が来たばかりでしっとりとした色を見せていたが、雲の隙間から晴れ間が指し、店内にほがらかな光を投げ込んでいた。
 見間違いの疑問を打ち消すために、もう一度、彼の頭の上をじっくりと確認する。
 ぱっと見、手毬を乗せているようにも見える。が、やはりその形状はいつかテレビや図鑑で見たことがある、イソギンチャクそのものであった。もったりとした小さな体をどっしりと髪の中に沈め、何十本もの触手がゆろゆろとカラフルな色彩をこぼしている。
 加奈は、頭の上にイソギンチャクを乗せる理由を考えていた。ファッションだろうか。パリのニュースタイルだろうか。パリの最先端ファッションは日本人には理解できないレベルに達することが、まま、ある。と加奈は常々感じていた。
 訊いてみれば早いのかもしれない、だが、訊くタイミングを逃してしまった。なぜ先ほど水槽のことなど口にしてしまったのだろう、と悔やむ。「頭にイソギンチャクが!」とでも叫んでしまったほうがよかった。そうしたら、彼の人あたりから察するに、「ああ、これはですね……」と説明してくれたかもしれない。
 一度チャンスを逃すと、ひとつ行動を起こすにも、より勇気や強い意志が必要になってくる。加奈は腹の底を搾るようにして、ようやっと声を出した。
「水田さん、でしたっけ。ええと、水田保さん」
「はい。名前、覚えていてくださったんですね」
「え、ええ。母からよく聞かされておりますので」
 母はちょっと珍しいくらいのいい人、と口をすっぱくして主張していた。
 加奈はそんな人が見合いなどするものか、どうせいい人のふりをしているものの腹黒いせいで婚期を逃したおっさんでもやってくるのだろう、母みたいな人にはそれが見抜けないのだなどと、自分を棚に上げて穿ったことを思っていたのだが。
 なるほど、にこにこする保の様子に不審な点はない。物腰もソフトで、どこからどう見ても好人物に違いない。ほんの少しの間ではあるが、一緒にいるその空間に、暖かい陽だまりのような居心地のよさを感じていた。とうてい悪いところのある人物には思えない。頭の上に不審が乗っている、それだけだ。
「水田さんは……」
 いいかけたところで、ウエイトレスが珈琲を持ってきてしまった。
 保は「ありがとう」と珈琲を受け取ると、加奈のほうに向き直って「なんでしょう」と問い直してくれた。
「いえ……なんでも……」
 訊けない。言えない。出した勇気に水ならぬ珈琲を差されて、加奈は消沈した。
 保はそんな加奈に向かって、「よかったら名前で呼んでください」と照れたように言った。
「なんか、親しくなった気になるし。ええと、変な意味じゃなくて、打ち解けて話せたほうが、いいかな、て」
「ええと、はい。保さん、ですね」
「はい」
 みるみるうちにうなじまで染まっていく保を見ていたら、少し心に余裕が生まれるのを感じた。短い間の好感触でしかないものの、目の前にいる人が、なんだか、とてもよい人なのだ、という確信を持てたような気がしたからだ。
 母の眼鏡は曇ってはいなかった、ということだろうか。そこはかとなく悔しさを覚えながら、ならばなぜ、頭の上のイソギンチャクについて何も言ってはくれなかったのだろう、と新たな疑問と取っ組み合いつつあった。
 そういえば、母は「少しくらいの欠点は大目に見なさい。あんたみたいに完璧ばっかり求めてるから、いつまでたっても結婚できないのよ」と言っていた。
 少しくらいの欠点……。と考えながら、加奈は目の前の男性を見つめた。
 見れば見るほど、好みとは正反対のタイプだ。だが、頭の上のイソギンチャクがすべてを帳消しにしていた。イソギンチャク以外の欠点など、この世に存在するだろうか。そう考えると、「好みのタイプではない」ということなど、もはや欠点ですらないのかもしれない。
 逆に言えば、イソギンチャクがあるおかげで、「自分の好みのタイプ」などというつまらないこだわりを払拭でき、色眼鏡を通さない彼そのものを、彼の人格を発見できたような気がしなくもなかった。そして、イソギンチャクを除いた、彼そのものは、決して悪くはなかったのだった。
 しかし、頭の上のイソギンチャクは重大な欠点ではないだろうか。
 彼が結婚できないのは――できないとすれば――イソギンチャクを乗せているためではなかろうか。
 何を思って、彼は頭の上にイソギンチャクを乗せているのだろうか。
 母はこれをささいな欠点と思っているのだろうか。
 加奈は迷っていた。彼にイソギンチャクのことを指摘するべきかどうか、心底迷っていた。彼がよい人という感触を得たからこそ、言いたくてたまらず、また、とても言えないのであった。
 仮に、これが鼻毛であったらどうだろう。やはり指摘はできないだろうし、「鼻毛の出てる男なんて、イヤだわ」と、禄に知ろうともしないまま、別れてしまうかもしれない。だが、モノはイソギンチャクである。加奈も今回初めて知ったのだが、「頭にイソギンチャクがついてますよ」とは、鼻毛よりも口に出しにくい。
 そして、イソギンチャクは、鼻毛よりもかわいいのであった。
 ふんわりしたやわらかそうなフォルム。ゆらり揺れる伸びやかな触手。目に鮮やかな、しかししつこくない、元気の出てくるような色。見れば見るほど爽やかな気分になってくる。そんなところが、彼にとてもよく似合っていた。それはイソギンチャクであるにもかかわらず、不思議なほどにマイナスイメージを伝えてこないのだ。
 いや、おかしいのだ、と加奈は自分を叱咤した。おかしい。どこからどう考えてもおかしい。だが、似合う。
 どうしてこんな気持ちになるのだろう、と加奈は珈琲のカップを弄んだ。彼を見ていると、懐かしい何かを思い出しそうになる。
 爽やかで、颯爽としていて、スラリとした……顔を上げて、彼の全体像をぼんやりと眺めていると、あるイメージと重なってしまった。
 王子様だ。
 それは、子供の頃に、絵本で見たことのある、凛々しいがどこか頼りない挿絵の王子であった。
 加奈は自らに絶望しそうになった。なるほど、あのイソギンチャクはまるで小さな王冠である。まさかこの年になって白馬の王子様を現実の男性と重ねるなんて、恥ずかしすぎる。ましてや現実は王冠ではなくイソギンチャクである。
「なんてこった……」
「え? なにか……?」
「いえ、なんでもないです」
 漏れた呟きを慌てて打ち消しながら、これはダメだ、と加奈は思っていた。
 彼自身は悪い人ではない。好みとは正反対ということを差し引いても、「ちょっとお付き合いするくらいなら、いいかも」とすら思えそうな好人物だ。だが白馬の王子様をイメージしながら結婚なんてできっこないし、したくない。いっそ狩人であってくれたら、と遺憾である。その場合頭の上には何が乗っているのだろう。リスだろうか。
 とにかく、このお見合いは断るしかないだろう。加奈は決意した。よく考えたら、頭にイソギンチャクの時点で考えるまでもなく断るほかはない。
 そうと決まれば断る口実を見つけなければ。
 加奈は脳をフル回転させて考えた。センスが合わないとか、好みが合いそうにないとかでいいだろうか。今日は無難に終わらせて、後でそう母に伝えておこう。さすがにイソギンチャクをしつこく押し付けてくるような真似はいかな母でもしないであろう。
「加奈さん」
 考え込んでいたところをふいに呼ばれて、素っ頓狂な声が出た。
「は?」
「あっ、すみません。あの、名前で呼んでも……」
「あ、はい、構いませんよ」
 保はほっとしたように、うれしげにもう一度「加奈さん」と呼んだ。
「えっと、月並みですけど、ご趣味は」
「趣味、ですか……そうですね……」
 無趣味であった。強いていうなら、その時々に楽しそうなことをするのが趣味だろうか。無目的な多趣味である。
 断ると決めたら自分をよく見せる必要もないわけで、率直にそのようなことを告げた。つまらない女だ、と思われるのはちょっと癪だが、どうでもうイソギンチャクだ。かまわない。
 そんな加奈の話を、保は幻滅するでもなく興味深そうに聞いてくれた。
「へえ、いろんなことをやってらっしゃるんですね。楽しそうだなあ」
「えっ、そんな……保さんのご趣味は?」
「はい、ぼくはスキューバダイビングが好きで」
 加奈の唇の端が引きつった。海に潜った拍子に、頭にイソギンチャクをつけたまま陸にあがってしまったとでもいうのだろうか。だとしたら、なんといううっかりさんだろう。笑いの発作を必死で抑えると、「な、何度も潜られてるんですか?」と次の質問をなんとか繰り出す。
「はい。楽しいですよ。南のほうの海だと、綺麗な魚がたくさんいますし。そうだ、よかったら今度ご一緒に」
「いえ、そんなっ。ダイビングって、なんだか大変そうですし、よく知らないし」
「簡単ですよ。心配ならプロにバディを組んでもらえば、誰でもできます。スキューバが不安でしたら、シュノーケリングも楽しいですよ」
「シュノーケリング?」
「ええ、イルカと一緒に泳いだり」
「イルカですか……それは、ちょっといいかも」
 南国の青く透明な海にイルカと遊ぶ自分を想像したら、水着を新調したくなってきた。
「是非。オーストラリアか沖縄なら、いつでもご案内します」
 さっと暖かく乾いた風が吹き付けてきたように感じた。青と白のコントラストのイメージが目の前に広がり、一瞬白昼夢を見たようだ。そこではイソギンチャクが違和感なく頭の上に存在していたのだった。
 いや、違和感を忘れてはいけない、と加奈はハッとして自分を夢から引き戻した。
 危なかった。うっかり戻れなくなるところだ。
「どうしました?」
 額の汗を拭うのを不思議そうに見つめてくる保に、加奈は「いいえ、なんでも」と笑顔を返した。よくよく思い返せば、白馬の王子とイソギンチャクのイメージで「イソギンチャクならいいけど」などという妥協をしていることがおかしい。
 どっちもダメだ。
 確かに加奈の好みからいったら王冠よりイソギンチャクのほうが百倍マシである。それは本来比べるものではないが、頭の上という条件下において「王冠を乗せた男」は権力志向とナルシシズムを感じさせるぶん、「イソギンチャクを乗せた男」よりも数倍きもちわるいのであった。
 加奈はもう何も知らない無邪気な子供ではない。実在の王室のリアルプリンスだって日常に王冠は持ち込むまい。現実に頭を王冠で飾ったような男などごめんこうむる。
 だが、目の前の男はイソギンチャクを乗せているのだった。王冠は加奈の勝手なイメージだ。だがそのイメージのおかげで目の前の危険から気を逸らせていたのに、海のイメージを持ち出されてイソギンチャクへの好感が補強されてしまった。
 イソギンチャクがかわいい。かわいいのだ。
 どうしたことだろう、加奈の目には保が、イソギンチャクを頭の上に乗せた保がかわいく映りはじめている。
 だからダメなんだって!
 加奈は何度目になるかわからない自分への叱咤を繰り返した。ブレーキを踏むのだ。イソギンチャクはダメだ。かわいくてもダメなのだ。
「ええと、何か頼みましょうか? 軽く……」
 保が、なぜかほんの少し照れたような調子で提案した。
「ここのワッフル、すごく美味しいんですよ」
「わっふる」
「えっと、はい。蜂蜜がよく合ってて、アイスも……あ、でも、そんなに甘くなくってですね」
「はあ、……保さん、甘いものお好きなんですか?」
「……はい」
 恥ずかしげに、告白したような声でいうので、好きなら好きでかまわないからもっと堂々とすればいいのに情けないなあと思いながらも胸がどんどんと痛くなるように感じてこれはどうしたことだ、と胸元を押さえた。
「……その、加奈さんとは正直におつきあいしたいので、隠さないようにしようと、思いまして……」
「甘党を?」
「……はい」
「別に隠さなくても。いいじゃないですか、甘いもの好きでも」
「えっ、そうですか? 男が甘いもの好きって、きもちわるくないですか?」
 いつか誰かにそんなことを言われたのだろうか、瞳の奥に哀しげなものが潜んでいる。加奈は保の頭の上にちらりと目をやり、
「きもちわるくはないですよ」
 と言った。
「そ、そうですか。よかった、勇気出して」
 心底ほっとしたように息を吐く。「じゃあ、ワッフルでいいですか? あ、ケーキもなかなかいいですよ」先ほどからの緊張が解けたのか、ずいぶんほがらかにメニューをくるりと回して加奈に見せてくれた。
「じゃあ、私もワッフルにします」
 うれしげにウエイトレスに注文する保を見ていると、胸の奥が暖かくなってくるのを感じる。男性と一緒にいるだけで、これほど落ち着くというか、安心させられることも珍しい。それは安全とは関係がないようだった。
 今までの加奈が好んでつきあったのは体育会系、ではないにしても、頼もしさと力強さを感じさせる、強引、悪くいえば傲慢、自らの弱みはできる限り隠そうとする、いわゆる男の色気があるタイプだった。保はどこからどうみても、ガシッとはしていない。ナヨッではないが、フワッとしている。
 ワッフルの食べ方ひとつにもそれが現れている。ごく自然な動作で丁寧にナイフを使い、こぼすことなく端から平らげていく品のよさだ。実においしそうに食べる。
 がつがつと、あっという間に胃袋に収めてしまうような食べ方とは明らかに違う。そんな食べ方にもうっとりしていたものだが、と加奈は自分を見つめなおす。
 もし、結婚することになれば、毎日目の前でこの食べ方を見ることになるのだ。彼の食べ方を受け入れられるだろうか。
 むしろ自分の食べ方の方が数段雑であることに気づいて加奈は眉間に皺を寄せた。同じように食べている筈なのに、おかしなことだ。保のナイフの使い方をこっそりマネしてみる。ナイフよりフォークの方が問題かもしれない。
 ワッフルの切れ端を口に運びながら、おそらく保は味噌汁も米も丁寧に上品に食すのであろう、とその食事風景を想像する。毎日毎日、それを見続ける、耐えられるだろうか。
 今までの男たちであればどうだったろう、と加奈は彼らの食事風景を詳細に思い出した。こぼす、垂らす、つまむ、咀嚼音を撒き散らす、良くも悪くも豪快で、それを男らしいと信じている。加奈もそれがカッコイイと信じていた。一応愚痴を吐きながらも、もうしょうがないんだからと惚気ていたのだ。
 額に手を当てた加奈を心配して、保がワッフルを食べる手を止めた。
「頭でも痛いんですか?」
「ちょっと、軽い頭痛が。大丈夫です」
 上品と豪快、どちらがいいだろうか。どちらもいいような気がするし、どちらにも耐えられない気もする。加奈は自らの望みがわからなくなってきていた。そういえば最後につきあった彼氏と別れたのは数年前だ。その数年で好みが変わってしまったのかもしれない。
 あるいは妥協しようとしているのか――このイソギンチャクと?
「嫁き遅れたいの? もう、手遅れに近いじゃない」
 母の声が脳内に響いた。
 いや違う。今時適齢期など、あってなきが如しだ。加奈は必死で自分にそう言い聞かせた。だが実際は違う。現代でも立派に適齢期はある。結婚していないというだけで「え、なんで?」という目で見られる風土は立派に存在する。昔よりもタイムリミットが伸びただけで、それはじりじりじわじわと近づいてくるのだ。そう、永遠に、近づいて来続けるのだ。
 そのプレッシャーに負けたというのか? 加奈は額を押さえるハンカチに顔を隠しながら苦悶にあえいだ。
 断じて違う。結婚はしたい。猛烈にしたい。だがそれは世間のためではない、自分自身のためだ。妥協などするものか、断じてするものか。
「だ、大丈夫ですか? ずいぶん苦しそうですけど」
「あ、はい。すみません。こんな席で」
 うっかり保の存在を忘れるところだった。彼は悪くないのだ、気を使わせてしまって申し訳ないことをした。
「あの、もし具合が悪いのなら、どこかで休むか、なんなら帰られたほうが」
「えっ……」
 今日はこの後、公園など歩いて適当に映画でも観て食事をするコースになっている。あまり早く帰ると母がうるさいな、と困った顔をしてしまう。その表情をどう見てくれたのか、保がパッと目を見開いたかと思うと、すっと頬を赤らめた。
「えっと、もし、また会ってくださるなら、もう一度、お誘いしますのでっ」
「ええと、それは」
「体調の悪い方を連れまわすなんて、ぼくもつらいので、是非、日を改めて……」
 困ったことになった。彼は加奈を気に入ってくれたのだろうか。断ると決めた相手にここまでいわれては立つ瀬がない。
「いえ、あの、大丈夫ですから。ちょっとくらっとしただけですから」
「でも、つらそうだ」
「お恥ずかしいです」
「体調が悪いなら、しょうがないですよ。無理なさらずに……ぼくのことは、気になさらないでください」
「ですが……」
 言いかけて、保の顔を見上げたとき、視線の上に黒い生き物の目線を感じた。
 クマノミの出現である。
「はっ……」
 加奈は大げさにならない程度に息を吸い込むことに成功した。
 その間も、クマノミはイソギンチャクの間から鼻先を出してこちらを見つめてくる。オレンジの職種の隙間に、黒いコントラストが美しい。思わず凝視してしまうと、すっと引っ込んでしまった。かと思うと、先ほどとは逆方向から、イソギンチャクの触手を振り分けるようにぷるぷると顔を振るってちょこんと鼻を出す。
 加奈は半ば溶けかけたアイスクリームをフォークの先ですくって口へ運んだ。少しこぼしてしまったが、口内に広がる冷たい甘さに少し救われた気分になれた。
 だめだ。見つめてはいけない。あまり見つめると失礼だ。
 そんな加奈の努力をからかうように、小さなクマノミはイソギンチャクの触手の上でたゆたうように遊び始めた。ふざけているのか、でんぐり返しをするような動きをしたかと思うと、触手の間に顔を埋めて尻尾を振っていたりする。
 見たい。どうしようかわいい。見たい。
 加奈は泣きたい気持ちになった。そして決意を込めて保に告げた。
「わかりました。今日は帰らせてもらいます」
 今日はもうダメだ。どうしようもなく混乱している。こんな状態で打ち解けて話せるわけがない。
 いや違う、と加奈はすぐさま打ち消した。
 断るって決めたのに、さっき決めたばかりなのに。なぜ次があるような口ぶりをしてしまったのか、もう自分で自分がわからない。
 自分はもっと保と話したいと、親しくなりたいと思っているのだろうか。しかし二回目に会ったならもうそれは結婚が決まったも同じことなのである。危険だ。
 加奈の心中を知ってか知らずか、保はほっとしたようにレシートを取り上げた。
「家までお送りしますから、大丈夫ですよ」
「そんな、そこまでしていただいては」
「いえ、心配ですから。途中で倒れてもぼくが支えますから、安心してください」
 すっと立ち上がった保から、爽やかな潮風が吹いてきたような気がした。
 ああ、どうしよう、彼を好きになってしまいそうだ、というようなことを加奈が意識したかしないか、その瀬戸際で。
 先ほどからエンジョイしていたクマノミが、突然の重力の変化を受けたせいか、勢い余ってイソギンチャクから飛び出してしまった。
 ぴたっ、と湿った軽いものが落ちたような音がした。さかんに何かが跳ねている。
 店内がいやに静けさを増しているように感じて、加奈はすっかり存在を忘れていた珈琲を見つめた。先ほどまで湯気がたゆたっていたカップは冷ややかな様子を見せていたが、一口飲むと、豆が良いのか、却って飲みやすく優しい冷たさが火照った喉にありがたいくらいだった。
 顔を上げられない加奈の横に、保が自然な動作でかがみこむと、クマノミを拾い上げた。ごく当然のように頭の上のイソギンチャクに戻す。
 クマノミはほっとしたようにイソギンチャクの中で再び遊び始めた。
「さ、行きましょうか」
 保が差し出す手を、加奈は少しの間見つめると、彼の手は借りずに自分で立ち上がった。
「……行きましょうか」
 代わりに彼の腕を取る。
 はにかんだような横顔を見つめながら、加奈は自分の中の危険信号が急速に力を失っていくのを感じていた。
「理屈じゃないんですよね」
 ぽそりと呟いた加奈の言葉が聞き取れず、保が不思議そうに首を傾ける。加奈はにっこりと笑って、「頭痛が治ったので、もう少しお話しませんか?」と提案した。


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