窓の隙間から冷たい風が入り込みさっと和也の額を撫でた。
影虎が朝の散歩に出かけたらしい。
影虎は賢い猫だ。鍵さえかけなければ引き戸という引き戸はすべてその肉球のついた前足で開けてしまう。ただ惜しいことに、閉めて行ってはくれない。
影虎の出て行った後を惜しむようにカーテンが舞い踊っていた。
和也は半ば眠りながら枕元にあるはずの目覚まし時計を探った。和也の部屋はよくいえばシンプル、悪くいえば質素なもので、布団とちゃぶ台のほかには雑然と本が積まれているばかりだ。ゆえに布団の周りには目覚まし時計くらいしかないはずだった。
が、和也の手はつるつるしてむちむちした冷やっこい何かを掴んでいた。時計ではない。
「なんだ、これ……」
和也は寝ぼけ眼のままふわふわかさかさしたものを引っ張る。答えはすぐに落ちてきた。
「それはわたくしの太ももです」
「……。……。ふともも?」
「ちなみに今引っ張られたのはわたくしのスカートとペチコートでございますご主人様」
和也は寝転がったまま目を開けた。アイリーンの鼻の穴が見える。位置からして、布団の脇に正座しているらしい。
「何でお前そんなとこにいるんだ」
「ちなみに今のご主人様の行動はセクハラです」
「機械にセクハラするほど落ちぶれてないから安心しろ。ご主人様止めろ。ちなみに寝てる男の枕元に座り込むのはセクハラにはならないのか? すげえ不快なんだが」
「もうしわけありません。ご主人様が眠ってらっしゃる間手持ち無沙汰で」
「豚でも沙汰でも勝手に持ってろ。……時計は?」
「……」
アイリーンはしずしずと半壊した時計を両手に乗せて差し出した。
和也はのろのろ起き上がってしげしげとその物体を眺めた。
「……何、これ?」
「時計です」
「……俺にはかつて時計だったものの残骸に見える」
「言いえて妙です」
「妙だよ。何で時計がこんなことになってるんだ?」
寝起きで霞がかかっているような頭に活を入れつつ、和也は憤ってみせた。
「ですから、手持ち無沙汰で」
「お前は暇だったら時計を分解するのか」
「時々は。すぐに組み立てようと思っていたのですが、完全に修復する前にご主人様が目覚めてしまわれたので」
「だからご主人様って呼ぶの止めろって言ったろ。何回言わすんだボケ」
「では何とお呼びすればいいのですかご主人様ご主人様」
「……今のわざとだな。嫌がらせだなこの野郎」
「わたくしの性別は女性に設定されておりますご主人様ご主人様ご主人様」
和也はため息を大量に吐き出して半身を起こした。
「和也でいいよ。和也と呼んでくださいアイリーン様」
振り返ると、にっこりと笑ったアイリーンが嬉しげに口を開いた。
「はい。和也様」
「……様も止めろ。ところで今何時だ?」
「わたくしの体内時計では現在八時四十八分十二秒です」
和也はそれを聞くと脱力して枕に顔をうずめた。完全に遅刻である。
「どうなさいましたか?」
「遅刻だ」
「そうですか」
全く危機感のみえないアイリーンに、和也の怒りは勃発する前に消滅した。これはアンドロイドで、機械で、イレギュラーな存在だ。感情を乱されるな。受け流せ。
和也は必死で自分をコントロールし、彼女に注意事項を与えた。
「いいか、目覚まし時計は壊すな。いや、時計だけじゃない、暇つぶしに何かを壊したり組み立てたりすることは今後一切禁止する。わかったな?」
「……はい」
やや寂しそうにアイリーンが返事をした。
「よし」
和也は布団から出ると、洗面をすませに廊下へ出た。
閉じるドアの隙間から、アイリーンが半壊した時計を大事そうに部屋の隅へ寄せるのが見えた。
少し言い過ぎたかなと反省しながら階段を下りると、そこには祥子が待ち構えていた。
「遅いじゃない! 何度か声かけたのよ」
「あーそりゃあお気遣いどうもありがとうございます」
和也は皮肉を込めて言った。
普段祥子が和也を起こすことなどまずない。
和也が寝坊して遅刻するのは彼自身の責任であり、祥子のせいではない。そのことを、和也は身をもって知っていた。「なんで起こしてくれなかったんだよ!」というセリフを言わなくなってから、既に十年近くが立とうとしている。
祥子はそんな皮肉に怯んだ風もなく、
「もう、拓真さんにアイリーンちゃん紹介しようと思ったのに、和也が遅いから拓真さん会社に行っちゃったじゃない。すっごく残念そうにしてたのよ」
和也が学校に遅刻していることについては気づいてさえいないようだった。
「そうかい」
息子の気のない返事に、祥子は「もううううう」と吼えた。
「拓真さん、まだ半信半疑なのよ。早く実物を見せたかったのにいい」
拓真とは和也の父である。生真面目な銀行員の仮面を被っているが、家では部屋にこもってギャルゲーばかりしている。祥子とはよく、和也の理解したくない話題で盛り上がっているが、和也との接点はあまりない。
たまに怪しげなゲームや雑誌を勧めてくるときくらいしか話すこともない。
そんな父親がアイリーンの存在を知ったらどうなることやら。和也はなるべく考えないようにしていたが、陰鬱な気分を持て余し気味だった。
「で? どうなの?」
溢れ出さん好奇心を少しも隠そうとせず、訊ねる祥子。
「どうなのって何がどうなんだ?」
うんざりした顔を隠そうともせず、和也は問い返した。
「鈍いねっ! もうっ。どうっていったら、アイリーンちゃんのことに決まってるじゃないっ!」
うんざりした顔をこれ以上うんざりできないくらいうんざりさせて和也は祥子を無視した。洗面所に向かう道すがら、「どうなの、どうなの」という祥子の声が背後にまとわりついてきたが、蛇口を盛大にひねって水音でごまかした。
洗面をすませたころには、祥子は諦めて自分の部屋にこもってしまったようだった。近くイベントがあると言っていたから、また実用外デザインの洋服でも作っているのだろう。
「今ので精神力を三十%消耗した」
和也は呟いて朝食をとりにキッチンへと向かった。どうせ遅刻だ。二時限目から行くなら、ゆっくりしてもいいだろう。そんなことを考えていると、ふといい香りが鼻をついた。卵が焼ける匂いだ。キッチンが近づくにつれて、トーストとバター、コーンスープの匂いも加わる。
「……何してるんだ」
声をかけると、白いエプロンもまぶしいアイリーンがくるりと振り向いた。
「朝食の用意をしております」
テーブルの上には、豪華とはいえないが旨そうな食事が揃っている。どうやら自分のために用意されたらしいそれらを前にして、和也はとまどいつつ椅子に座った。
アイリーンが注文をとる。
「お飲み物は何になさいますか? コーヒーと紅茶と緑茶とオレンジジュースに牛乳がご用意できます。お望みならカフェオレ、オレンジオレなど」
「コーヒーをください」
それ以上飲み物を列挙されてもとうてい選び切れはしない。アイリーンはてきぱきと戸棚から彼のカップを取り出した。
「あれ? どうして俺のカップがそれだってわかった?」
何気なく訊いて後悔した。
「和也様の唇の形とカップの飲み口の減り具合を比較して推測しました」
「怖い。すごいようでいて怖いぞお前」
和也はアイリーンの性能にかすかに怯えを抱きながらコーヒーを飲んだ。彼女がいかに高性能であろうともインスタントをドリップの味にはできないわけだが。
「でもお前、料理できるんだな。これ食っていいのか?」
「はい。和也様のためにお作りしました。どうぞ召し上がってください」
「いただきます」
朝食は旨かった。トーストは程よく焼け、バターまで塗られているし、卵の火の通り方も申し分ない。コーンスープにいたっては、おそらく缶詰の粒コーンを使ったと思われるが、どのように加工すればこんな味になるのか和也には想像もできない。
数ヶ月ぶりに食べるまともな朝食に、和也は感動を禁じえなかった。
熱いスープが目覚めたばかりの体にしみこんでいく快感に、思わず呟く。
「旨い」
「うれしゅうございます」
アイリーンもまた、呟くように言った。
目覚まし時計を壊されたことくらい、学校に一時間遅刻したくらい、何ということもない。アイリーンの用意した朝食にはそれらを美しく水に流すだけの力があった。
「お前、料理以外には何ができるんだ?」
やや上機嫌になりながら和也がたずねる。
「一通りの家事はこなせます。掃除、洗濯、炊事などやらせていただきます」
「前の主人のところでも家事をしてたのか?」
「はい、博士の身の回りのお世話はわたくしがしておりました」
「博士?」
日常聞きなれない言葉だ。とすると、その博士とやらがアイリーンの製作者なのだろうか。そう訊いてみると、案の定アイリーンは頷いた。頷きはしたが、昨日現在の持ち主を訊かれた時と同じく、非常に嫌そうだったので和也はそれ以上深く訊ねないことにした。
「ありがとうございます」
心からほっとしたように礼を言う彼女に、果たして心らしきものは存在するのか、和也は考えかけて止めた。
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