六畳一間のこじんまりした和也の私室に、一人と一体が座っている。
和也が凝視する畳の表には、アイリーンの足跡がかすかについていた。
どんだけ重いんだこいつは、と和也は嘆きを新たにする。きっと、アイリーンが腰を上げたときには畳に尻の跡が残っていることだろう。
和也はとりあえず数学の課題をすませることにした。難問は山積みしているが、はっきりいって考えたくない。数式は手ごろな逃避材料だった。
数問を解き終わって乗ってきたころ、
「そこは間違っています」
とアイリーンの横槍が入った。
ちゃぶ台の向こう側からこころもち身を乗り出して和也のノートを覗いている。
少々の苛立ちとともに、
「どこが違うって?」
と訊いてみれば、アイリーンは見事な解法を披露した。
見事すぎて和也には理解できなかった。
「お前、勉強できるのか」
くやしまぎれに頭をがしがしやりながら訊いてみる。アイリーンは涼しげな顔で答えた。
「一般常識レベルの設問はインプットされています」
「へえ」
「よろしければお教えします」
「いいよ。遠慮します」
教えてもらってもわからないなら、教えてもらう意味はない。それどころか説明されているのに理解できないとなれば、余計なコンプレックスばかり刺激されていいことは何ひとつない。自分で考えたほうがましである。
「いいえ、お教えさせてください」
「やけに熱心だな。なんでだ?」
不審に思い、訊いてみる。
するとアイリーンは節目がちになり、そこから視線をあちこちにさ迷わせ、ついで和也の視線をぐっと捉えて言った。なぜかぽっ、と頬が赤みを増す。
「わたくしは、ご主人様のお役に立ちたいのです」
「……」
「ご主人様」
更に言い募るアイリーンに、和也は鳥肌をさすりながら言い放った。
「わかった、わかったからその目の演技止めろ。ご主人様も止めてくれお願いします」
アイリーンは元の無表情に戻った。和也に問うでもなく呟く。
「なぜでしょう。マニュアルにはこうすればどんな男もイチコロ! とありましたのに」
「お前のマニュアルはおかしい。しかも古い。どんな昭和マニュアルだそれ」
容赦ないツッコミに、更にしょげかえった風情のアンドロイドに、和也はやや同情してしまった。
「つーか、イチコロって、なんで俺をイチコロにしたいんだ? どうして俺がお前のご主人様にならなくちゃならないんだよ。そういうの喜びそうなのを当たったほうが早いだろ。いっぱいいるし……。例えば……」
うちの親父とか。
和也はまっさきに思い浮かべてしまった自分の父親を脳内から消去した。胃が痛い。
「ええと、この辺うろついてダンボールに入ってるより、電気街とか行ってみたらどうだ?」
「嫌ですあんなオタクの聖地」
「何でそんなこと知ってるんだお前は」
「あんなところに行ったらわたくしは押し寄せるアンドロイド萌えのむくつけき男たちにもみくちゃにされて壊されてしまうに違いありません」
「……彼らをかばうわけじゃないが、そこまでひどくはないと思うぞ」
「わたくしは貴方様を主人に選んだのです。お願いします。貴方様がはいといってくださるだけで、わたくしは何でもいたします」
「何もして欲しくないんだが。むしろ出てけ」
「だからこそわたくしは貴方様を主人に選んだのです。出て行きません」
「確信犯か」
保身がかかっているのだから当然だが、思ったより強情なアイリーンに和也は前途多難さを感じうなだれた。
その和也を励ますように猫が鳴く。
「ニャー」
「おっ、影虎! おかえり俺の癒し!」
窓の隙間から入ってきた猫にひっしと抱きつく和也を見て、アイリーンはショックを受けたように後ずさった。
「……どうした?」
和也の問いにも答えず、彼女は何事か考え込んでいるようだったが、しばらくして何かを決意したように顔を上げた。
「その猫はご主人様の猫ですか」
「そう、影虎という近所でも評判の立派な猫だ。ていうかご主人様違うからな」
「……猫がお好きなんですね……」
絶望の影もくっきりと呟くアイリーンに危険なものを感じて、一人と一匹は後ずさった。影虎は体中の毛を膨らませて威嚇している。尻尾がモップだ。
「それならば仕方がありません。わたしはプライドを捨てます」
「ぎゃあ!」
和也は思わず叫んだ。アイリーンの頭部から毛むくじゃらの耳が生えたのだ。
「ご主人様が猫耳がお好きというなら致し方ありません。虫唾が走るほど嫌ですがお望みならしっぽも生やしましょう!」
「生やすな! 俺だって嫌だそんなもん!」
「なぜです! 猫好きの男性は猫耳も好きなはずです!」
頭部の猫耳をぴくぴくさせながらにじり寄ってくるアイリーンを全身で拒否し、和也はやや死に物狂いな風情で説明した。
「いいか、猫好きだからといって猫耳が好きとは限らないんだ。第一人間……の形をしたものに猫の耳が生えていたからといって、それは猫ではなく猫の耳を持った何かにすぎない。俺が好きなのは純粋な生物としての猫であって、こういう」
影虎を差し示す。
影虎は威嚇する。
「猫そのものが好きなんだ。だから、俺は猫耳というアイテムを拒絶する。わかったか?」
アイリーンは雷にうたれたようにフリーズし、がっくりと両手を付いた。みしり、と畳が手のひらの形に沈む。
「健気なメイドや猫耳に萌えない男がいるなんて……。わたくしはどうしたら新しいご主人様に認めてもらえるのかわかりません」
どうやら猫耳は最終手段だったらしい。
打つ手がなくなったアイリーンは自暴自棄のあまり畳に転がった。
「おい止めろ。畳がダメになる面積がどんどん増えていくじゃないか」
「わたくしはもう嫌です。何もかもが嫌です。壊すなら壊せ」
「なんだその突然の無気力。つうかお前オタクが嫌いなくせにどうして誘惑にメイドとか猫耳を使うんだよ。矛盾してるぞ」
アイリーンは転がりながらぼそぼそ喋った。
「わたくしにはそれしか悩殺の手段がないからです。他に何にもできないクズでございます」
「今度は自虐か。予想外な機械だなお前は」
「手首とか切ります」
「脅しか? 切るなよ、皮膚のスペアないんだろ」
「じゃあどうしたらいいんでごじゃいまちゅかー!」
畳にうつぶせになって手足をバタバタさせるので、積んであった本の幾山かが雪崩を起こした。影虎が怯えて和也に上る。
「止めろってコラ埃が立つだろ。しかも日本語おかしくなってるぞお前」
「ご主人様が欲しいのです」
「だから……」
「電力と屋根が欲しい……」
「なるほど」
なかなか切実である。
和也は影虎をなだめながら必死で考えを巡らせた。この場合、どうしたらよいものか。
ほどなく和也はため息とともに告げる。
「わかった」
アイリーンは承諾の意味を捉えられず顔を起こした。
「ご主人様にはならないけど、条件付でここに置いてやるよ」
「本当ですか?」
こころもち目を輝かせたように見えるアイリーンに、和也は不承不承頷いた。
「母さんがあれだし、お前はこれだし、俺にはこうする以外いい方法を思いつかない」
「ありがとうございます!」
三つ指を突いて古風にお辞儀をする彼女に、和也は条件を突きつけた。
「ただし、それはお前の本当の持ち主が現れるまでだ。前のご主人様は亡くなったって言ってたけど、お前を相続する人間くらいいるんだろ? 逃げてきたって言ってたしな」
製作者の意図はともかく、これほどのアンドロイドを逃がしたままにしておくはずはない、きっと探しに来てくれるだろう、と和也は考えたのだ。それまでの辛抱なら、できなくはない。追い出すのが無理なら、迎えを待つまでだ。
そんな和也の問いかけに、アイリーンはぴしりと静止した。わずかに震えてもいるようだ。
「あれ? 相続人はいないんだっけ?」
アイリーンはうんうんと首を上下させた。
「それともいるのか?」
アイリーンはううんううんと首を左右に動かした。
「言葉で言え」
「……そ、そう、相続人は……い、いま、いまいまいまいま」
「壊れた!」
「わたくしは正常です」
「じゃあ答えろよ。お前の今の法的な持ち主はいるのか?」
「い……いま……いまいましい」
一瞬凶相を表したアイリーンに、和也は彼女から一メートルほど遠ざかって壁にぶつかった。和也の頭から放り出された影虎が「うにゃにゃにゃにゃ」と文句を云いながら布団の隙間に潜り込んでいった。
「ちょっと怖いぞお前」
「いいい……いま、……す……」
それだけ言い切るとアイリーンは物欲しそうに部屋を見回した。
「今ので体内エネルギーを三十%消耗しました。補給が必要です」
「……何だかわかんが、お前が持ち主を大嫌いなことはよくわかったよ」
「ありがとうございます」
言いながらアイリーンは腹の辺りを探ってコードを取り出した。彼女がコンセントに彼女のプラグを差し込むと、ブレーカーが落ちて階下から祥子の叫び声が聞こえてきた。
アニメの録画に失敗したと泣く祥子を見て、和也は「こいつとは以外に仲良くできるかもしれない」とアイリーンを少し見直したのだった。
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