鰐と乾物屋 1

 出来心だった、とでもいおうか。
 いつもならしないこと。自分らしくないこと。そういうことに首を突っ込んでしまうことが、たまにある。それは過ぎてみれば予定調和すら感じさせ、不自然な行動や言動もろもろが、立派に自分の一部であることを思い知ったりも、する。
 わたしの場合、目の前に現れた隘路がそれにあたる。
 その日は本屋へと行く途中だった。
 行きつけの本屋は、個人経営のこぢんまりしたお店で、天井まである書架と、そこにぎっしりと詰め込められた本が魅力だ。本の隙間に閉じ込められる度、もし地震がきたとしたら、店主は再整理の間に気が狂うんじゃないかと考え込んでしまう。
 置き捨てられたような脚立を動かし、昇り、ぎゅうぎゅうに押し込められた本を一冊抜き出すのに苦労したり、中身を確認した後、見こみ違いで戻そうとして戻せなくなったり、店の隅の書架から新刊書店のはずなのに古本としか思えない年代の本を発見したり。そういう楽しみのある貴重な本屋。
 高い書架に囲まれる幸せを期待して、わたしは歩いていた。
 そんなつましくも平凡なひとりの女の前に、一本の見なれない小道。
 舗装もされていない、剥き出しの地面のあちこちに雑草や花が繁茂している。通いなれた道筋に、こんな場所があったろうか。記憶の抽斗を探ってみても、埒もない。小さな花が誘うように揺らめいていた。
 時計を見る。休日のことで、予定もない。少し寄り道をしたところで、構いはしない。私道ではありませんように、と少々スリルを覚えながら、わたしはその道に踏み込んだのだった。
 あたたかくてどことなくいい匂いがする。湧き立つような、春の匂いだ。先ほどまで歩いていたアスファルトからは熱が伝わるばかりだったが、土と草の大地には泣きたいような苦しさがある。引き返したいような、どこまでも行きたいような気持ちを弄びながら、やさしい地面を踏み進んだ。
 道の両脇は板塀が低く高く折れ曲がりながら続いている。どの家も、背の高い木を植えているので、中の様子をうかがうことはできない。わたしは、ほっと肩の力を抜いた。
 電信柱に、すずめが数匹。人間を見て逃げて行ってしまった。板塀の下に、釣鐘草。おおいぬのふぐり、れんげ草。名も知らぬ小さな花。鮮やかなみどり。庭に桜を植えている家があった。もう花のかけらも残ってはいないが、わたしは葉桜のほうが好きだ。豊かな緑を虫が食い尽くしてしまわないうちの、貴重な新緑を楽しみながら、のんびり歩く。
 日の光がまぶしくて、目があまり開かない。涙が滲む。手でひさしを作りながら、この道はどこまで続いているのだろうかと辺りを見回した。目蓋が重く、意識が体から半分ずれたようで、なんだか落ち着かない。目の端に暗がりを見つける。そちらに視線が集中したとたん、すとん、とわたしはひとつになった。
 それは最初、道端の暗がりのような、ただのわだかまりに見えた。その奥に何かあるような気がして、目を凝らすと、小さなお店がじわじわと網膜に浮かんでくる。
 どうやら乾物屋らしかった。というのは、店先に魚の開いたのが干してあったので。柱には「かんぶつ」と書かれたプレートがくっつけてあった。
 どこまでも地味というか、旧式な店構え。セピア色の風景はいつだって人を懐かしく魅了する。
 生臭いようなしょっぱい匂いがツンと鼻をつく。
 通りすぎるべきか、ちょっと寄ってみるべきか、迷った。こういう構えの店で、ひやかしはしにくい。何かしら買わなくてはいけなくなるだろう。だが、今のご時世、乾物でもなんでも、大型スーパーで買ったほうが安くついてしまうのだ。何かお買い得なものはあるだろうか、と慎重に近づいてみる。店先の干物に値段の書かれた紙が貼りついていた。
 一ざる三十円。
 笊にはアジのヒラキが五枚乗っていた。小ぶりではあるが、肉付きといい、色艶といい、なかなか美味しそうだ。晩御飯にどうだい、と胃袋に訊いてみる。快諾をいただき、わたしは長く伸びた雑草を足で掻き分けながら、その店に入っていったのだった。
 間口は二間といったところだろうか。手ごろな狭さだ。
 棚にはずらりと商品が並べてあった。紙の袋に入ったもの、壜に詰められたもの、ビニールに小分けにされたもの、さまざまである。そんな中にカラフルな飴玉が入った壜を見つけて、そういえば、このごちゃごちゃした感じは駄菓子屋に似てるな、と連想する。やけにしょっぱい駄菓子屋だが。
 果たして乾物屋は飴をあつかう商売だったろうか。
 干物が入った笊のひとつを手に取り、レジを探す。が、ものであふれた店内のどこにも、それらしき形は見つからなかった。天井からはいくつもの笊やネットが吊り下げられていて、視界が悪い。
「すみません」
 呼ばわれども、誰も出てこない。やむなく店の奥に足を踏み入れる。雑然とした場所に分け入りながら、ここまで入ってもいいのだろうか、と不安になってくる。やけに長細い店だ。さては、これがうなぎの寝床というやつだな。
「すみませーん」
 がしゃり、と音がした。顔を向けると、ガラス戸の手前に設けられた腰掛に、何かが座っていた。何か、といったのは他でもない。明かりが少なくてよく判別できないものの、人のシルエットではなかったからだ。
 正しくいうと、首から下は人間のラインを辿っているのだが、首から上が……。
「ワニ?」
 口に出してしまった。またがしゃり、と音がする。
 どうやら、シルエットの主は居眠りをしているらしい。ワニのラインがこっくりこっくり動く。ガラス戸にもたれているため、船をこぐ度に後ろ頭がかすめて音が鳴る。
 わたしは少々、途方に暮れた。
 逡巡の末、煮干が詰められた壜の横に置いてあったスプーンを手にとって、壜をやや強めに叩いた。清々しい音色が響き渡る。
「ふわ?」
 目を覚ましてくれたらしい。ワニが間抜けな声を出して顎を上げた。
「あの、お会計、いいですか?」
 訪ねると、慌てたように立ちあがる。
「あ、わ、お客さんだ! す、すみません。ちっとも気づかないで」
「いえ……」
 何を思ったか、寝ぼけているのか、こちらに突進してくるのを除けるが、ワニも気がついて向きを変えたので、結局ぶつかってしまう。
「すみませんっ」
「いえ……」
 幸い、ワニはわたしよりもずいぶん背が高かったので、顎に頭をぶつける愚は避けることができた。声の調子と、体つきからして男性らしい。かなりのあわてものだ。ぺこぺこする動作に、顎が商品を崩してしまわないか心配になる。
「本当にすみませんっ。最近、お客さん来ないので油断してて。つい居眠りを」
「そんな気にしなくていいですから、たいしたことないし」
「はあ、あ、こちらでお会計しますので」
 年齢は不詳ではあるが、どことなく若若しい。腰が低い彼は見かけによらず好青年のように思えた。
 に、しても。
 店先の、明るいところへ出てはっきりした。店の奥では暗いせいでカエルかもしれないと思ったのだが、やはり彼はワニの被り物をしていた。緑色と銀色の中間色のような、何か良く判らないもので形作られたそれは、安物のゴム・マスクとは一線を画して精巧だった。首から上がリアル・ワニだ。
 何故ワニのマスクなどつける必要があるのだろうか。乾物屋さんがワニというのは、どうだろう。趣味だろうか。もしそうなら、個人の趣味に口を出す権利などわたしにはない。
 なんとなく悄然として、わたしは笊を彼に差し出した。
「これ、いただけますか」
「はい。ええと、三十円になります」
 わたしはあらかじめ用意してあった三十円を渡した。彼はちょっと伸びをして、お勘定を入れているのだろう、吊り下げられた笊にお金を入れる。ちゃりん。
「これはおまけです」
 彼は飴の入った壜から何個かを取り出すと、セロハン紙でできた袋に入れてくれた。
「あ、どうも」
「今日は失礼をしましたが、今度からちゃんとしますんで、どうぞごひいきに」
「あ、はい……また、きますね」
 金色に輝く目を微笑ませるので、わたしもつられてにっこり笑ってしまった。
 乾物屋を出ると、風がスカートを揺らして通り過ぎて行った。どことなく気分が軽い。新聞紙で丁寧に包まれた干物を抱きしめて、ほとほと歩く。道の先は、本屋へと続く路地へ伸びていた。思わぬ近道を発見してしまったようだ。
 独り暮しの部屋へ帰って、干物を焼いてごはんを食べる。食べながら、乾物屋のワニを思い出していた。事情はよくわからないが、何とはなしに微笑ましいような、哀しいような、けれど悪くない気分になってくつくつ笑った。
 まあ、ちょっと変だけど、面白い店ではある。干物もお買い得だし、美味しかったし。本当にまた行ってみようかな。
 まんざらでもない気分で、そんなことを思った。


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鰐と乾物屋 02

 二度訪ねると、常連気分が湧いてくる。
 三度四度と訪ねるままに、わたしはすっかりその乾物屋と気安くなっていた。
 ワニの彼は、名前を村山さんといった。世間話の合間に名前は知ることができたものの、何故ワニの被り物をしているかまでは、聞き出せていない。深い事情があるのかもしれない。単なる趣味なのかもしれない。興味は尽きないが、ずけずけ聞く勇気はない。
 こうもあからさまにワニであるが故に、却って言い出し難いのだ。
 乾物屋の主人なのかと思ったが、一介の店員であるらしい。店長は見たことがないが、たまに顔を出すという。実質、村山さんがこの店を切り盛りしているようなものだ。
 村山さんは顔に似合わず聞き上手だった。ぽつりと漏らしたわたしの愚痴なんかを上手に拾い、丁寧に聞いてくれる。自然、乾物屋に滞在する時間は長くなっていった。
 本屋へ行く途中に寄っただけのはずが、気づけば本屋が閉まる時間まで居てしまったこともある。その間も他の客は現れなかったから、最初に聞いた通り、閑古鳥は鳴きっぱなしなのだろう。
「毎日こんな調子ですか」
「まあ、そうですねえ」
 話を聞いてもらって居座り続けて、というだけは申し訳ない。村山さんが店の掃除をしているところに行き会ったわたしは、手伝いを買って出た。
「でも、夜は結構賑わうんですよ」
「え、夜もやってるんですか、ここ」
「はい」
 村山さんは棚に並べられた壜のほこりを払いながら、営業時間を教えてくれた。なんと、夜の三時まで開店しているという。居眠りしてしまうはずだ。
「じゃあ、昼間は休んでるんですか?」
「うーん、開店が二時ごろですかね」
 十三時間営業。
「それって、体に悪くないですか?」
「他にバイトも入りますから……まれに」
「……ほとんど村山さんひとりなんですね……」
「……頑丈なのがとりえです」
 侘しい空気が流れた。しみじみと棚を雑巾で清める。店の中は雑然として、拭っても拭っても掃除が終わる気配がない。小一時間もそうして手を動かし続けたろうか、夢中になって棚を整理していたわたしに、村山さんが声をかけた。
「わりかた片付いたし、そろそろ、お茶にしませんか?」
「お茶、ですか?」
「はい。良かったら御一緒に」
「あ、ありがとうございます。いただきます」
「手、洗います?」
 はい、と頷くと、村山さんはガラス戸の奥を指差した。
「あちらの奥に、洗面所がありますので、ご自由にどうぞ」
 お先に、といわれて、引き開けられたガラス戸の向こうへお邪魔する。
「失礼します」
「あいよ!」
 答えはないものと思っていたので、甲高い声で応答されてびくついてしまった。すばやく部屋の中を確認するが、だれもいない。変わったところといえば、ちゃぶ台の前に据えられた座布団に、小奇麗な市松人形が座っていたことくらいだ。
「ん?」
 市松人形が、こっちを向いている。笑った。
「ふ」
 市松人形に笑いかけられると、怖いものである。
 強暴な肉食のワニであるところの村山さんは全然怖くないのに、小さな、小さすぎる人形が自らの意思で動くように見えると激しい恐怖を感じる。人としての何かに訴えかける要素がそこにあるのだろうか。
 そんなことを考えながら、白くなっていく意識と戦っていたら、人形に叱咤されてしまった。
「なんだい、近頃の若い娘は。挨拶もできやしないのかい」
「う、いえ、はい。すみません。はじめまして。佐藤と申します。失礼しています。お邪魔させてもらってもよろしいでしょうか」
 言葉がしっちゃかめっちゃかだ。お邪魔するどころか、本当は逃げたい。
「ふん。上がりな」
 随分伝法な人形だ。よくよく見れば、随分綺麗な着物を着て、キセルを手に挟んでいる。おかっぱの黒髪もつややかではあるのだが、どことなく年代を感じさせる。下世話な一言でいえば、「高そう」な人形だった。コレクター垂涎。
 お邪魔しますと言ってしまった手前、上がらないわけにもいかない。少しよろよろしながら、ちゃぶ台を通り越して洗面所のドアを開く。石鹸を泡立てながら、頭の整理をしようと勤めるが、叶わぬ努力だった。備え付けのタオルは使わずに、ハンドバックに入れておいたハンカチで手を拭く。無駄にバックの中を整理して、口紅を塗りなおしてみる。
 できる限り冷静になって、ドアを開けると、やはりそこには市松人形がキセルを吹かしていた。
 わたしと入れ替わりに村山さんが洗面所に入り、居間には人形とわたしの二人きりになる。気まずい。
「突っ立ってないで、座ったらどうだい?」
「あ、はい。失礼します」
 おずおずと、人形の対面からややずれたところに正座する。
「足は崩してもいいよ」
「あ、ありがとうございます」
 崩し難かったのだが、崩さないわけにもいかない気がして、わたしは少しだけ足をずらした。スカートを着ていて良かった。
 ほとんど時間を置かず、村山さんが手を洗い終えた。
「すぐにお茶にしますから」
 居間のすぐ脇にある台所に入り、お湯を沸かし始める。いそいそと動く村山さんを横目で見ながら、わたしは沈黙に耐えていた。
「やれやれ、やっと一休みできるね」
 人形がカチン、とキセルを灰吹きに叩きつけた。
「店長はずっと休んでたじゃないですかー」
 村山さんの声が台所から聞こえてくる。すると、この人形はめったに姿を見せないという、噂の店長ということか。なんという風変わりな乾物屋だろう。
「何をいうんだい。ここでちゃんと監督してたよ」
「すぐにそういう……」
 ぶつくさ言う村山さんに、
「あの、村山さん、わたしもお手伝いしましょうか」
 と助け舟を出す。この場合、助けられるのはわたしな訳だが。しかし、この場から逃れたいという希望は、あえなくついえた。
「いえ、お客さんにそんなことさせるわけにはっ……。どうぞ、座っててください」
「……そうですか」
 まあ、逃れられてもせいぜい二メートル。がっかりしながら上げかけていた腰を落とす。
「ムラめ、よくいうよ。さっきまで掃除を手伝わせてたじゃないか」
「うっ……」
 絶句する村山さんを庇うため、勇気を出して店長に向かう。
「あ、あの、あれはわたしが無理に手伝いたいと言ったので……村山さんは悪くは」
「わかってるよ。悪いなんて言ってないじゃないか。早とちりな娘だよ」
 今度はわたしが絶句するはめになった。
「あんた、名前は」
 店長がこちらを見る。目には光があるが、表情が読み取れない。
 先ほど名乗った名前をもう一度告げる。
「佐藤です。佐藤、恵です」
「ふうん。なかなか使えそうな娘じゃないか」
「え」
「店長、そういう話は」
「ふん、わかってるよ」
 やかんがしゅんしゅんいう音が聞こえた。
 ほどなく、湯のみを乗せたお盆を持って、村山さんがこちらへやってきた。
「どうぞ」
「なんだい、茶菓子はなしかい」
「えっと、売り物のかりんとうならありますけど」
「けちくさいねえ、せっかくお客様がいらっしゃるってのに、和菓子のひとつくらい奢ってやりなよ」
「は、はあ」
「ひとっ走り行ってきな。三町目の密橋がいいよ」
「えっ、今からですか?」
「とっとと行きな。早くしないと給料下げるよ」
「ぎゃあ、はいっ!」
 エプロンを翻して店を飛び出す村山さんの後を追おうと、声をかける。
「あ、あの、わたしも一緒に」
「客は黙って座ってな」
 喉元にキセルを突き付けられて、わたしはしんみりと腰を落ち着けた。


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鰐と乾物屋 03

 村山さんをひたすら待つ間、時間は行きつ戻りつ、相対性理論を持ち出すまでもなく、いつもより滞っているような気がした。かちり、こちりと居間に据えられた大時計が秒針を鳴らす音を聞きながら、わたしは冷や汗を流していた。店長はキセルに煙草を詰め、ぷかりぷかりと吹かしている。
「あんた、ここにはどうやってきた?」
 ふいに質問がやってくる。
「ええと、普通に、歩いてきてますが」
「何回目だい?」
「よく覚えてませんが、確か……二十回はいってないと思いますが、十回は超えてるかと。どうしてです?」
「何、気になっただけさ」
 また、ぷかり。煙草の煙が徐々に居間を侵食していく。肺を圧迫されるような空気に咽ないように、息をできるだけ止める。
「て、店長は、いつからこちらでご商売を」
 文字通り、息が詰まるような雰囲気に押され、なけなしの疑問をぶつけてみることにした。果たして黙殺されるか、叱咤されるか。覚悟を決めていたつもりだったが、
「気が遠くなるくらい昔からさ」
 答えてもらって更に店長が恐ろしくなった。洒落かもしれないが、この乾物屋では何が起きてもおかしくない気がしてきていたのだ。それは、最初に村山さんに会ったときに感じているべきことだったのかもしれない。うっかりしたものだ。
 店長がこうなのだから、村山さんも本当にワニ人間なのかもしれない。村山さんはいい人だが、わたしはこれから自分に起こることが予測できなくなったし、それだけでなく、既に何かとんでもないことが起こってしまったような気もする。
 それとも、何も起こっていないのか。全ては幻覚なのか。わたしの頭がおかしくなってしまったのだろうか。
 混乱していた。
 そんなわたしの思考を読むように、店長がぽつりと言った。
「あんたはおかしくないよ。ちょっとずれてるだけさ」
「はあ」
 慰められているのか、突き落とされているのかよくわからない。小首を傾げると、店長は愉快気に笑った。めんどりが鳴くような声だった。
「おもしろい娘ではあるねえ」
 ムラをどう思う、と訊かれて、返答に困る。
「どう、といわれましても」
「いい男とか、あんなのお断りだとか、いろいろあるだろう」
「あー、まあ、いい人だとは思いますが、あの」
「なんだい」
「村山さんは、ワニですか?」
「ぷははははははははは」
 突然けたたましく笑われて、びくっとした拍子に腕がちゃぶ台をかすって少しお茶が零れてしまった。店長はそんなことを気にした風もなく、キセルを振りまわして笑っている。
「本当におもしろい娘だよ。本人に訊いてみな」
「そんな、そんな」
 できたらとっくに訊いている。店長にも、「あなたは人間ですか?」なんて直接訊ける訳がない。人の社会は、常にオブラートに包まれているものなのだ。
 まあ、とわたしは思う。
 まあ、人間であってもなくても、たいした変わりはないかもしれない。現にわたしはもうこの状況になじんできている。喋る人形と言葉を交わし、お茶を飲み、お茶菓子を待っている。
 万が一、取って食われるかもしれないという可能性は心から消えないし、一刻も早くここから逃げ出したい気持ちはあるのだが、どことなく惹きつけられるものがあることも確かだ。店長がいうわたしのおもしろさとは、そこにあるのかもしれない。そんなわけで、腰を抜かしたように座りこんでお茶を飲む。
 熱いお茶が胃に落ちていく快さに、ほっとため息をついた。
「ただいま帰りました」
 足音が近づいてきたかと思うと、がらりとガラス戸が引き開けられて村山さんが姿を現した。
「遅いよ」
 わたしの心情的には店長と同じだったが、時間を考えればずいぶん早い。三町目までは結構な距離があるはずだ。自転車を使ったのかとも思ったが、村山さんのシャツは汗を含んで肌に張り付いていた。本当に走ってきたらしい。壁に吊るしてあったタオルで首を拭っている。
「ご苦労様です。大丈夫ですか?」
「はい、なんとか」
 あえぎあえぎ、台所で水を一杯呷ると手を洗って小皿に茶菓子を盛って出してくれた。
「ご所望の和菓子です。どうぞ」
 つやつやした木製の小皿の上に、素朴な緑色の饅頭が乗っていた。てっぺんに丸山が二つ、白砂糖か何かで彩られている。
「おいしそうですね」
 素直にそう思ったが、店長は器用に眉を寄せた。
「……よりによって、よもぎまんじゅうかい。若くて可愛い娘っこがいるってのに、よもぎまんじゅうたあなにごとだ」
「え、何かいけなかったですか」
「おまえさんねえ、蜜橋だよ。よもぎまんじゅうなんかよりももっと洒落た菓子はいくらでもあるだろうよ。それをよりにもよってよもぎまんじゅうを買ってくるとは呆れたね」
「店長、和菓子がいいって言ったじゃないですか。それによもぎまんじゅうが一番美味しいんですよ」
「口答えするんじゃないよ。センスってものがないっていってるんだよ」
「そんなこといわれても」
 村山さんがしょぼんと俯いた。顎のリーチがあるぶん、視覚的にわかりやすい。店長の叱責が激しくなるにつれて、顎がじわじわと下がっていく。顎が胸につくあたりまで見守ったのだが、店長の口舌は止む気配がない。
 店長に刃向かうのは怖くはあるが、いつまでもこんなよくわからない説教を聞かせられてはたまらない。
「あの、店長さん、わたしよもぎまんじゅう好きですよ。蜜橋のなんて、食べたことないし、楽しみです」
 村山さんがぴょこんとこちらを向いた。店長とわたしを交互に見る。
 店長は少しの間きょとんとすると、くつくつと笑い声を立てた。
「はいはい、お客さんの前で説教とは、失礼したねえ。それじゃまあ、お茶にしようか」
 その一言で場が幾分和やかになる。安堵してお茶を啜ると、ぬるくなっていた。
 饅頭は美味しかったのだが、その味そのものよりも、よく味がわかったなという感慨の方が深いことが残念だった。


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鰐と乾物屋 04

 六畳のワンルームに寝転がって雨の音を聴く。頬に食い込む畳の目に、六月の湿気を感じていた。むしむしした空気を吸いこんで、吐くと、それは自然とため息になる。腕を伸ばしてプラスチックのちゃぶ台の天板をなぞると、指先に水滴がつく。湿った指先を額につけるとひんやりと気持ちがよかった。
 乾物屋さんでよもぎまんじゅうをご馳走になってから、一週間が過ぎようとしていた。
 そろそろ買い物にお邪魔するころなのだが、そんな気になれずこうしてうだうだと畳に寝転がっている。
「うう」
 お腹が空いた。
 食料の残りをぼんやりと思い起こしながら、冷蔵庫を開ける。納豆、きざんだ葱、かまぼこ、しらす、干物しかない。干物は最後の一枚だった。
 ごはんを暖めて、干物を焼いて、かまぼこの味噌汁を作って納豆と食べよう。そう思って干物を焼こうとしたのだが、手にとってみると妙な匂いが鼻につく。よくよく嗅いでみると、腐っていた。干物を持つ手と共に、気持ちまで落ち込んで行く。
 かまぼこをおかずにして、納豆茶漬けをかきこんでふて寝することにした。
 雨はなかなか降り止まない。嫌いじゃないんだけどな、と窓から手を出すと、指先を水滴が掠めて落ちて行った。
 湿気が大敵である乾物屋にとって、梅雨時はとりわけやっかいな時期だろうことは、想像するまでもない。
「村山さん、だいじょうぶかなあ」
 誰にいうともなしに呟いて、すぐに心でわたしの心配することじゃあないけれど、と打ち消した。
 雨がどんどん降っている。


 干物をだめにしてしまってから数日後、わたしは傘を差して乾物屋へと続く道を辿った。いつもの道が、水を吸いこんで見知らぬぬかるみへと変貌を遂げている。パンプスが剥き出しの土に食いこんで、会社帰りに寄ったことを少し後悔する。
 雑草に降りた雨の雫をつま先で払いながら、板塀の間をすり抜けて行く。
 板塀の間を、ばたんばたんと微かな音を響かせて、赤い傘が進む。足もとの緑はいつもよりも濃く色づいて、通りすぎる足を迷惑そうに受けとめ、お返しとばかりに靴の甲に水滴を散らしてくれる。
 ぼんやりと歩いていたせいか、気づくと道がアスファルトに変わっている。
 板塀の、切れたところ、乾物屋への入り口を見逃してしまったらしい。戻ろうと踵を返したものの、一歩踏み出した靴が泥に縁取られているのを見て、諦めることにした。
 がっかりしているのか、ほっとしているのか、自分でもよくわからない。きっと半分半分くらいだろう。
 村山さんには会いたいけれど、あの場所が少し怖くなっていた。
 どうして村山さんに会いたいのかは、わからなかった。
 あんなにワニなのにね。
 パンプスから泥を落として磨き上げながら、わたしは村山さんが好きだな、としみじみ考えた。


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鰐と乾物屋 05

 幸いにも、休日は晴れた。
 パンプスをスニーカーに履き替えて、湿った地面を踏んで行く。通いなれた道だ。
 買い物メモには、干物、にぼし、昆布、乾燥ワカメと書いておいた。最近記憶力に自信がない。全部覚えているつもりでも、後になってひとつふたつ見落としをしてしまう。
 そのメモを弄んでいると、塀の間を抜けて行く風に取られてしまった。ひょうと飛んで行くメモを追いかけると、メモは板塀の切れ目に吸い込まれていった。乾物屋への入り口だ。
「あ、佐藤さん」
 塀の隙間から空き地へと滑り込むと、珍しく村山さんが店先に出ていた。
「こんにちは」
「こんにちは。いらっしゃいませ」
 そのワニの顔を見て、ほっとする自分がおかしくもあり、興味深くもあり。
 乾物屋の店先には、車が四台ほど停まれるスペースがある。まさか駐車場ではあるまいが、雑草がぼうぼうに茂っており、小さな花の色づきもあるものの、ほとんどは緑で埋まっている。その真中を、蛇のような獣道がのたくっている。
 両膝から太ももの辺りまで、雨の名残の水滴を受けながら、村山さんのところまで歩いた。
「今日は何をお求めですか」
 声をかけてくれるのに、わたしはメモを飛ばされてしまったことを思い出す。空き地をぐるりと見まわすが、白い小さな紙切れは緑にまぎれて跡形もない。
 わたしがきょろきょろしているのに、村山さんが「どうかしましたか?」「メモが飛んできませんでしたか? このくらいの紙なんですけど」両人差し指で大きさを示す。「さあ、見ませんねえ」「そうですか」「探しましょうか」「いえ、そこまでは。いいんです。大したものじゃないので」
 たしかメモには、干物、ワカメ、昆布、とあったはずだ。
 それらを用意してもらう間、あまり思い出したくはなかったが一応お礼を言っておくことにする。
「先日は、ご馳走様でした」
「いえ。店長が蜜橋を奢るなんて、めったにないことなんですよ。佐藤さん……気に入られてしまったみたいで」
「そうなんですか」
 嫌われるよりはいいかと思ったが、村山さんの口ぶりが喜ばしいものではなかったのが気になった。けれど、問うほどのことではない。店長と村山さんの間には、何か得体の知れない複雑な関係があるのだろう。知りたいような気持ちが二割、知りたくない気持ちが八割、圧倒的に訊き返したくなかったのでわたしは黙った。
 村山さんはしばらくわたしの質問を待っていたようだったが、やがて商品の入った紙袋を渡してくれた。
「佐藤さんは、何も訊かないんですね」
 考えていたことを読まれていたようで、少し気まずい。
「あー、訊いたほうが、良かったですか?」
「知らないほうがいいです」
「は……?」
「佐藤さんは、賢明です」
「はあ」
「でも、これからも買い物には来て欲しいです」
「それは、もう」
 ひいきにしてますから、と言うと、村山さんは嬉しそうに笑ってくれた気がした。


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