2016/03/05
鰐と乾物屋 1
出来心だった、とでもいおうか。いつもならしないこと。自分らしくないこと。そういうことに首を突っ込んでしまうことが、たまにある。それは過ぎてみれば予定調和すら感じさせ、不自然な行動や言動もろもろが、立派に自分の一部であることを思い知ったりも、する。
わたしの場合、目の前に現れた隘路がそれにあたる。
その日は本屋へと行く途中だった。
行きつけの本屋は、個人経営のこぢんまりしたお店で、天井まである書架と、そこにぎっしりと詰め込められた本が魅力だ。本の隙間に閉じ込められる度、もし地震がきたとしたら、店主は再整理の間に気が狂うんじゃないかと考え込んでしまう。
置き捨てられたような脚立を動かし、昇り、ぎゅうぎゅうに押し込められた本を一冊抜き出すのに苦労したり、中身を確認した後、見こみ違いで戻そうとして戻せなくなったり、店の隅の書架から新刊書店のはずなのに古本としか思えない年代の本を発見したり。そういう楽しみのある貴重な本屋。
高い書架に囲まれる幸せを期待して、わたしは歩いていた。
そんなつましくも平凡なひとりの女の前に、一本の見なれない小道。
舗装もされていない、剥き出しの地面のあちこちに雑草や花が繁茂している。通いなれた道筋に、こんな場所があったろうか。記憶の抽斗を探ってみても、埒もない。小さな花が誘うように揺らめいていた。
時計を見る。休日のことで、予定もない。少し寄り道をしたところで、構いはしない。私道ではありませんように、と少々スリルを覚えながら、わたしはその道に踏み込んだのだった。
あたたかくてどことなくいい匂いがする。湧き立つような、春の匂いだ。先ほどまで歩いていたアスファルトからは熱が伝わるばかりだったが、土と草の大地には泣きたいような苦しさがある。引き返したいような、どこまでも行きたいような気持ちを弄びながら、やさしい地面を踏み進んだ。
道の両脇は板塀が低く高く折れ曲がりながら続いている。どの家も、背の高い木を植えているので、中の様子をうかがうことはできない。わたしは、ほっと肩の力を抜いた。
電信柱に、すずめが数匹。人間を見て逃げて行ってしまった。板塀の下に、釣鐘草。おおいぬのふぐり、れんげ草。名も知らぬ小さな花。鮮やかなみどり。庭に桜を植えている家があった。もう花のかけらも残ってはいないが、わたしは葉桜のほうが好きだ。豊かな緑を虫が食い尽くしてしまわないうちの、貴重な新緑を楽しみながら、のんびり歩く。
日の光がまぶしくて、目があまり開かない。涙が滲む。手でひさしを作りながら、この道はどこまで続いているのだろうかと辺りを見回した。目蓋が重く、意識が体から半分ずれたようで、なんだか落ち着かない。目の端に暗がりを見つける。そちらに視線が集中したとたん、すとん、とわたしはひとつになった。
それは最初、道端の暗がりのような、ただのわだかまりに見えた。その奥に何かあるような気がして、目を凝らすと、小さなお店がじわじわと網膜に浮かんでくる。
どうやら乾物屋らしかった。というのは、店先に魚の開いたのが干してあったので。柱には「かんぶつ」と書かれたプレートがくっつけてあった。
どこまでも地味というか、旧式な店構え。セピア色の風景はいつだって人を懐かしく魅了する。
生臭いようなしょっぱい匂いがツンと鼻をつく。
通りすぎるべきか、ちょっと寄ってみるべきか、迷った。こういう構えの店で、ひやかしはしにくい。何かしら買わなくてはいけなくなるだろう。だが、今のご時世、乾物でもなんでも、大型スーパーで買ったほうが安くついてしまうのだ。何かお買い得なものはあるだろうか、と慎重に近づいてみる。店先の干物に値段の書かれた紙が貼りついていた。
一ざる三十円。
笊にはアジのヒラキが五枚乗っていた。小ぶりではあるが、肉付きといい、色艶といい、なかなか美味しそうだ。晩御飯にどうだい、と胃袋に訊いてみる。快諾をいただき、わたしは長く伸びた雑草を足で掻き分けながら、その店に入っていったのだった。
間口は二間といったところだろうか。手ごろな狭さだ。
棚にはずらりと商品が並べてあった。紙の袋に入ったもの、壜に詰められたもの、ビニールに小分けにされたもの、さまざまである。そんな中にカラフルな飴玉が入った壜を見つけて、そういえば、このごちゃごちゃした感じは駄菓子屋に似てるな、と連想する。やけにしょっぱい駄菓子屋だが。
果たして乾物屋は飴をあつかう商売だったろうか。
干物が入った笊のひとつを手に取り、レジを探す。が、ものであふれた店内のどこにも、それらしき形は見つからなかった。天井からはいくつもの笊やネットが吊り下げられていて、視界が悪い。
「すみません」
呼ばわれども、誰も出てこない。やむなく店の奥に足を踏み入れる。雑然とした場所に分け入りながら、ここまで入ってもいいのだろうか、と不安になってくる。やけに長細い店だ。さては、これがうなぎの寝床というやつだな。
「すみませーん」
がしゃり、と音がした。顔を向けると、ガラス戸の手前に設けられた腰掛に、何かが座っていた。何か、といったのは他でもない。明かりが少なくてよく判別できないものの、人のシルエットではなかったからだ。
正しくいうと、首から下は人間のラインを辿っているのだが、首から上が……。
「ワニ?」
口に出してしまった。またがしゃり、と音がする。
どうやら、シルエットの主は居眠りをしているらしい。ワニのラインがこっくりこっくり動く。ガラス戸にもたれているため、船をこぐ度に後ろ頭がかすめて音が鳴る。
わたしは少々、途方に暮れた。
逡巡の末、煮干が詰められた壜の横に置いてあったスプーンを手にとって、壜をやや強めに叩いた。清々しい音色が響き渡る。
「ふわ?」
目を覚ましてくれたらしい。ワニが間抜けな声を出して顎を上げた。
「あの、お会計、いいですか?」
訪ねると、慌てたように立ちあがる。
「あ、わ、お客さんだ! す、すみません。ちっとも気づかないで」
「いえ……」
何を思ったか、寝ぼけているのか、こちらに突進してくるのを除けるが、ワニも気がついて向きを変えたので、結局ぶつかってしまう。
「すみませんっ」
「いえ……」
幸い、ワニはわたしよりもずいぶん背が高かったので、顎に頭をぶつける愚は避けることができた。声の調子と、体つきからして男性らしい。かなりのあわてものだ。ぺこぺこする動作に、顎が商品を崩してしまわないか心配になる。
「本当にすみませんっ。最近、お客さん来ないので油断してて。つい居眠りを」
「そんな気にしなくていいですから、たいしたことないし」
「はあ、あ、こちらでお会計しますので」
年齢は不詳ではあるが、どことなく若若しい。腰が低い彼は見かけによらず好青年のように思えた。
に、しても。
店先の、明るいところへ出てはっきりした。店の奥では暗いせいでカエルかもしれないと思ったのだが、やはり彼はワニの被り物をしていた。緑色と銀色の中間色のような、何か良く判らないもので形作られたそれは、安物のゴム・マスクとは一線を画して精巧だった。首から上がリアル・ワニだ。
何故ワニのマスクなどつける必要があるのだろうか。乾物屋さんがワニというのは、どうだろう。趣味だろうか。もしそうなら、個人の趣味に口を出す権利などわたしにはない。
なんとなく悄然として、わたしは笊を彼に差し出した。
「これ、いただけますか」
「はい。ええと、三十円になります」
わたしはあらかじめ用意してあった三十円を渡した。彼はちょっと伸びをして、お勘定を入れているのだろう、吊り下げられた笊にお金を入れる。ちゃりん。
「これはおまけです」
彼は飴の入った壜から何個かを取り出すと、セロハン紙でできた袋に入れてくれた。
「あ、どうも」
「今日は失礼をしましたが、今度からちゃんとしますんで、どうぞごひいきに」
「あ、はい……また、きますね」
金色に輝く目を微笑ませるので、わたしもつられてにっこり笑ってしまった。
乾物屋を出ると、風がスカートを揺らして通り過ぎて行った。どことなく気分が軽い。新聞紙で丁寧に包まれた干物を抱きしめて、ほとほと歩く。道の先は、本屋へと続く路地へ伸びていた。思わぬ近道を発見してしまったようだ。
独り暮しの部屋へ帰って、干物を焼いてごはんを食べる。食べながら、乾物屋のワニを思い出していた。事情はよくわからないが、何とはなしに微笑ましいような、哀しいような、けれど悪くない気分になってくつくつ笑った。
まあ、ちょっと変だけど、面白い店ではある。干物もお買い得だし、美味しかったし。本当にまた行ってみようかな。
まんざらでもない気分で、そんなことを思った。
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