小夜嵐

ほっとけ 


 仏壇の扉を開けると、おっさんがいた。
 見知らぬおっさんだった。
 すみやかに閉めた。
 仏壇から距離を置きつつ、恭二は考えた。いや、考えることができなかった。頭の中は空っぽであり、次いでとりとめのない思考が脳を支配しようと湧き出してくるが、次から次へと漂白されたように消えていく。
 なぜ、おっさんが。
 かろうじてその疑問を胸に抱くと、恭二は床にへたりこんだ。
 わからない。
 なんだこのわからない状況は。
 二十五年生きてきて、これほど不可解な状況に追いやられたことなど、なかった。
 2DKの一角を占拠する巨大な仏壇は、叔母から預けられたものだ。自宅を改築する都合上、家から家具を出さねばならない。トランクルームを借り、大方の荷物はそこに詰め込んだものの、仏壇はそんなところに置きたくはない、と叔母は言う。
「借家は狭いし、どこにも行き場所がないのよう。ちょっとの間だけだから、あんたの所に置かせて」
 うちも狭いから、などと断る権利は恭二にはなかった。
 実家を出る際、親ともめた。そのとき仲裁をし、引越し費用を出してくれたのが叔母だった。のみならず、就職難にあえぐ恭二を知り合いの店に紹介してくれたのも彼女だ。おかげで恭二は食いはぐれることも、実家に強制送還されることもなくなんとか暮らしていけている。
 今も恩義を感じているし、金を返したからといって叔母を邪険にあしらうことなどできない。恭二はしぶしぶながら仏壇を置くスペースを作った。
 問題の仏壇は黒光り金光りしていて、派手で無駄に豪華だったが、よく見るとあちこち古ぼけて味わいがないこともない。一メートルを軽く超える高さと幅があり、やや装飾過剰なせいか、威圧感がはなはだしく、二メートルくらいに見える。材質はわからないが、どっしりと重くて運ぶのに二人がかりだった。仏壇には、運ぶ際扉がばたばたしないように目張りがしてあった。
 その目張りをはがそうとしたのは、部屋を占拠されてから一週間目のことだった。
 叔母から「ちゃんとお世話してる?」と電話がかかってきたのだ。なんでも、サカキという植物を供え、ロウソクをともし線香をあげねばならないらしい。
 実家にも仏壇はあったが、誰も省みることはなかった。母が線香の匂いを嫌っていたため、あの、どこか懐かしいような匂いを嗅いだことは数えるほどしかない。近年では、扉も閉め切りで、忘れられた部屋の隅で埃をかぶるばかりのようだ。
 作法など知らないが、叔母のいいつけとあらば仕方がない。仕事の帰りに花屋でサカキを買った。
 サカキは青々とした硬い葉をもっていた。酔うような強い匂いを発している。
 そういえば、と恭二は思い出す。
 そういえば、子どもの頃に母がこんな枝を捌いていた。顰め面をしながら花瓶に活けていたっけ。
 その後、葉がぽろぽろ落ちるのに嫌気がさしたらしく、造花が仏壇に放り込まれ、扉は閉ざされ、ほとんど開けられることはなくなった。
「確か、葉っぱが乾いてぱりぱりになるから、掃除がしにくいんだよなあ」
 茶色くひび割れた葉は薄焼きせんべいまたはラン・グ・ド・シャのように砕け、うっかり落として踏んだりしてしまうと畳や木地の隙間に入り込み、なかなか払いきれず、後始末に難渋したものだ。
 束の間、プラスティックのイミテーションにしようかと迷ったが、思い直して生気のあるものを選んだ。確かに掃除は面倒だが、枯葉になるほど放置してしまうのもどうかしている。小まめに手入れをすればすむ話だ。
 ふだん買う青物といったら惣菜コーナーのサラダくらいなもので、食べない植物を花屋で買うことが新鮮で楽しかったせいもある。
 ロウソクと線香は仏壇に備え付けてあるというので、引き出しを探したところ簡単に見つかった。ライター、お経や数珠も一緒に入っているが、使い方がわからないのでライターだけ取らせてもらう。
 さて、と仏壇の目張りをはずし、扉を開けたところで。
 おっさんだ。
 おっさんである。
 なぜ、おっさんなのだ。
 そのおっさんは、禿頭であった。あるいは坊主なのかもしれなかったが、別段袈裟を着ているとか着物を着ているといったこともなく、どちらかというと、洋装である。
 いや、洋装にどちらもこちらもない。ないが、おっさんが強烈な和の印象を発散していたため、どちらかというと、という曖昧な接頭語がくっつくことになる。
 白いシャツに、ベージュのスラックスを身に着けている。ベルトは黒い。おそらく牛革だ。靴下が白くぴっちりと足に張り付いている。
 年の程は初老にかかったくらいだろうか。もっと若いかもしれず、もっと年寄りかもしれないが判然としない。恭二には五十歳以上の具体的年齢を断定しきれるだけの経験はない。もはや「おっさん」と呼ぶほかはないだろう。
 標準サイズよりは大振りとはいっても、仏壇に入れてしまうくらいだから人間としては小柄である。そのおっさんが、膝を抱えて、体育座りで仏壇に収まっている。収納されている。
 恭二は一瞬でこれだけのことを見て取り、すみやかに扉を閉め、仏壇から離れ、冒頭のごとくへたりこんで自失した。
 恭二としては、できればいついつまでも自失していたかったが、人としての生存本能がこの状況に説明を求めて脳が動き出した。
 まず頭に浮かんだのは、犯罪の二文字だった。叔母、もしくはその家族がおっさんを仏壇に詰め、隠匿しようとしたのだ。
 隠匿してどうなる。意外に素早く自らに反論する。
 おっさんを隠匿してどうするというのだ。
 あれが死体だとして、何故仏壇に詰めて甥の家に運ぶ必要があるのだ。そんなものはない。万が一、叔母が完全犯罪をもくろんだとしても、それほどまでに愚かだとは思えない。血の繋がりからいって、思いたくない。
 第一、仏壇が運びこまれてから一週間だ。一週間もの間、気配も臭いもしなかった。あれが死体だとしたら、この暑い季節、腐らないはずがない。防腐加工されているとは思えない。そんな完璧な技術があるなら、加工する前に始末できるだろう。
 そこまで考えて恭二は赤面した。なにも犯罪にこだわることはない。発想が推理ドラマに侵されすぎている。
 臭いもなく、気配もない。狭い仏壇に押し込められ、運ばれたところで文句も言わぬ。要するに、あれは人形なのではないだろうか。そうに違いない。
 ちょっと変わったご神体とか、そのようなものだ。叔母の宗教観に興味を持ったことがないので、叔母の家がどんな信仰をしているのかも知らない。常識的に考えてありえない話だが、非常識が現実化している状況からしてその可能性は高い。
 ご神体だとして、それがなぜもさい服装のおっさんなのか、という疑問は残るが、日本には宗教の自由がある。何を拝もうが奉ろうが第三者に疑義をはさむ権利はない。
 ひとり焦った自分を恥じつつ、恭二は仏壇の扉を開けた。
 やはりおっさんがいる。
 いや、この場合「ある」といったほうがいいのだろう。ヒトではなく、モノなのだから。
 しげしげと見つめる。やはり人形だ。生気がない。
 禿頭のおっさんは清潔で埃ひとつかぶってはいない。叔母がよく掃除しているのだろう。細部までよく作りこんであって、皺のひとつひとつが柔和な印象を与える。福福しいとはいえないが、清貧な分、どことはなく神々しさを感じなくもない。目はよくある仏像のような半眼で、こころもち下方を見下ろすようにしている。
 仏には遠いが、神に寄って、人に近い。
 曖昧で微妙なありがたさだ。
 落ち着いたことだし、とりあえずサカキを活けねば。恭二は花瓶を持ってきて、供えようとするが場所が難しい。なにしろ仏壇いっぱいにおっさんが詰まっている。花瓶を置く余分な場所がないのだ。
「もうちょっと詰めてもらえないかなあ」
 呟きながら、おそるおそるおっさんの脚に手をかけ、押し込もうとした。
 目が合った。
 恭二の手から花瓶が滑り落ちる。
 恭二はそそくさとした動作で仏壇の扉を閉めた。充分な距離をとってから、ゆるゆると膝から崩れる。
 こぼれそうな心臓を感じて、胸を手で押さえる。動悸が激しい。おっさんと視線が合っただけでこんなに胸が痛くなるなんて、おかしなことだが別段恋に落ちたわけではない。
 目が合った。視線が絡んだ。
 よくあることだ、恭二は自分に言い聞かせる。人形と目が合ったとか、視線を感じたとか、よく聞く話じゃないか。
 気のせいだ、と何度も呟くが、気のせいではないと直観が告げている。まぶたが動いた。口の端がむっと下がった。
 なんか、動いてた。
「あれ、生きてるんじゃね?」
 恭二は途方に暮れた。
 あれが人形でないとすると、人間ということになる。しかも生きている人である。死んでいる人の方がよかったかもしれない、と恭二は思ってしまった。
 ここ二三日の間に不審者が入り込んだのだろうか。いや、仏壇が運びこまれてからずっと目張りは張りっぱなしだった。そんなことは不可能だ。飲まず食わずトイレに行かずで一週間、人間があんな狭いところに詰め込まれて平気なはずはない。いわば密室殺人、もとい密仏壇侵入である。現在進行形の不可能犯罪だ。独りきりで仏壇に入り、内から目張りを貼りなおすトリックでもあるというのか。あったとして、そんなもの、あってどうするのだ。何の役に立つというのだ。
 否、共犯者がいればそれも可能だ。だが、仏壇におっさんが入った後、目張りを張りなおす共犯者のメリットとはなんだ? それをいうなら、仏壇に不法侵入する利益とはなんなんだ。
 不可能だ。不可解すぎる。
 なぜ、おっさんなんだ。
 もしかしたら妖精さんなのかもしれない。仏壇に奉られている特殊な妖精さん。
「そんなわけあるか」
 恭二は抱えた膝に額をぶつけた。正気を取り戻したくて何度か強く打ち付けてみる。
 かなり無理があるが、あれが妖精さんだと仮定して、叔母はこのことを知っているのだろうか。知っていて押し付けたのか。だから「お世話してる?」なんて不自然な電話をかけてきたのかもしれない。この場合のお世話とは、サカキを供えたりロウソクや線香をあげたりお経を唱えたりする世間一般のお世話とは違う意味のお世話なのかもあるいは隠喩暗喩たとえ話空気読めということなのかもしれない。
 恭二は仏壇を意識してびくつきながらも携帯電話を手に取った。とにかく叔母に確認を取らなくては今夜眠れない。
 数回のコールの後、叔母のほがらかな声が「はあい」と告げた。
「あ、おばさんですか?」
「どこにかけたの」
「おばさんのところです」
「じゃあおばさんなんじゃない」
「そうですか、おばさんですか」
「どうしたの? 声に元気がないけど、お腹痛いの」
「いえ、別に」
「風邪ひいたの」
「いいえ、健康です」
「じゃあどうしたの? 彼女にふられたの」
「彼女いないのでふられることすらできません。それよりおばさん、仏壇のことなんですが」
「ああ、ちゃんとお世話してくれてる?」
「その、お世話のことなんですが」
「あれ、前教えたでしょ。サカキを飾って、ロウソク立てて、線香あげる。最後にチーン。手を合わせておしまい。あとなんか言いたいことあったら言ってもいいわよ」
「はあ、それは、わかってるんですが」
 とぼけているのか、本当に知らないのか、世間知らずには難しい叔母である。
「その」
 言いたかった。ぶちまけてしまいたかった。
 仏壇におっさんがいるんです。
 しかし、具体的な言葉を頭の中で形作ったとたん、恭二の常識と保身がそのセリフを口にすることを阻んだ。
 仏壇の中に生きてるおっさんが入ってます。妖精さんかも。どうしたらいいんでしょう。
 なんだこのセリフは。
 恭二は考えた。電話では話せない。電話で伝えたら、ギャグと思われるか冗談ととられるか。どちらにせよ切られてしまい、その後の連絡をとるのが難しくなるかもしれない。でなければ、こちらの頭を心配されてしまうだろう。
 とにかく、叔母がどこまで知っているのか探りを入れねばなるまい。
「会って話したいことがあるんですが」
「あら、なあに?」
「その、おっさ……初老の男性について、ちょっと問題が」
「あたし浮気なんかしてないわよ。どうせするなら若い子の方がいいし」
「おばさんのプライベートはそっとしておきたいと思っています。そうではなくて」
「恭ちゃん、彼女じゃなくて彼氏ができちゃったの?」
「そうでもなくて」
 噛み合わない。
「ある男性について、心当たりがないかお聞きしたいんです。ハゲ頭で……」
 ガタン、と仏壇が振動した。思わず握り締めた携帯電話がミシリと軋んだ。
 怒ってる。ハゲ言われて怒ってる。
「じゃなくて、ええと、スキンヘッドの紳士をご存じないですか?」
 恐る恐る仏壇を伺いながら言い直すと、許容範囲だったのか鎮まったままだった。ほっと息を吐いて叔母の陽気な声に集中する。
「頭に毛がないのね。まったくないのね? ゼロなのね?」
 そんなに念を押さなくても、と思うがここは受け流すことにした。
「そうです。あるいは襟足に名残があるかもしれません」
「ううん、三人くらい知ってるかなあ。うちのおじいちゃんと、仕事先の上司と、獣医の先生。うっすらハゲなら、もっとたくさんいるんだけど。家系かなあ。うちの旦那も最近頭頂部が薄くなってきてね、生え際からならまだしも、頭頂部からだから。怖いわよねえ。本人も恐れてるみたいで、最近毛はえ薬の広告を真剣に検討してたりするのよ。あれ本当に効果あるのかな。別に、ハゲててもいいと思うんだけど。いっそつるっぱげのほうが潔いわよねえ。あ、恭ちゃんのとこは、先祖代々ふさふさだから、あんまり心配することないからね。でもものごとは遺伝子どおりにはいかないかもしれない。覚悟だけは決めて、ワカメをたくさん食べなさい」
「その、おじいちゃんは今、どちらにいらっしゃいますか?」
「えー、どちらって、うちに居るわよ。さっきお茶飲んでたよ」
「そうですか……あ、仏壇関係では」
「そうそう、檀那のお坊さんがいたわ。でも名前も知らないなあ。法事のときくらいしか会わないし、所持仕切るのはあたしじゃないし」
「お坊さんだけですか?」
「何人か入れ替わってるかもしれない。けど、みんな同じに見えるから、一人とカウントしていいと思う」
 かわいそうなお坊さん。
 恭二は昨今の宗教事情に思いを馳せ、いや、今も昔もそう変わってないかもしれないと思い直した。
「そのお坊さんの中に、仏壇が好きな方っていますか? その、中に、入るのが」
「仏壇の中に?」
「はい」
「生きてるうちは、普通入らないと思うけど。仏壇に入るとか、そういう特殊な趣味の持ち主には、ちょっと、心当たりない」
「そうですか」
 かけたカマは全て外れた。受け答えに不審な点もない。叔母は、おそらく、無実だった。
 それではあのおっさんは一体、なんだというのだろう。再び説明のつかない空間に戻ってきてしまった。叔母が何も知らないとすると、電話口で「仏壇の中に得体の知れないおっさんがいるよう」と訴えるのはやはりためらわれる。たとえ信じてもらえたとしても、叔母に駆けつけてもらっても状況は好転しないだろう。かといって、これからどう行動したらよいのか、見当などつくはずもない。
 しょぼくれた空気が電波を伝わってしまったのか、叔母が気遣わしげに、
「恭ちゃん。元気出して」
「はあ」
「いつか、きっと、いい人が見つかるから」
「は?」
「そりゃあ、難しいと思う。スキンヘッドの、できればお坊さんで、仏壇に入る趣味のある人なんて、なかなか見つからないでしょ」
「へ?」
「でもね、くじけちゃダメよ。あたし、恭ちゃんにどんな恋人ができたって、ちゃんと祝福してあげるから」
「おばさ」
「でも、あたし恭ちゃんにそんな趣味があるとは思わなかっ」
「ありません」
 妙な誤解が生まれている。
「いいのよ、あたしと恭ちゃんの仲じゃない。秘密にしておいてあげるから。でもね、うちの仏壇には入らないで欲し」
「入りません。違います。ありえない誤解です。そんな恋人募集してません。おばさんは思考が偏った方向に柔軟すぎると思います」
 叔母は完璧に白だった。


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ほっとけ 2 


 とにかく、叔母に会って話がしたい。
 なんとか土曜日に部屋まで来てもらう約束を取り付けて、恭二は電話を切った。
 仏壇はこの一週間そうだったように、依然不気味な沈黙を保っている。ああそうだ、ずっとこうだったんだ、と恭二は身震いを止められなかった。
 土曜日までにおっさんをどうこうできるか、自信がない。どう対処すればいいのか、急いで考えなければなるまい。
 妙なことになってしまった。ぐったりと重い体をベッドに横たえる。仏壇は常に目の端に捉えている。怖くて目が離せない。正しく言うと、目を離してしまうと仏壇を再び視界に入れるのが怖くなるのだ。仏壇は面積的に恭二よりも大きい。その存在感ゆえに、気を抜くとこちらへにじり寄ってきそうな圧迫感がある。どうせ視界から消えないのなら、ずっと見張っていたほうがまだしも付き合いやすい。
 かといって恭二は一晩中仏壇と睨み合っているつもりはなかった。都合のいいことに、隣の部屋に大学時代の先輩が住んでいる。帰ってきたら泊めてもらおう。持つべきものは親しい先輩。しておくべきは近所づきあいである。
 近所のよしみで、この時期彼の帰りが遅いのは知っている。まだ大分間がある。それまで何とか気を紛らわせなければ、神経が持たない。
 おっさんが仏壇から出てきたら、と思うと怯えが増すが、今まで出てこなかったのだから、これまでも出てこないだろう、と無理やり思い込みつつ、気休めに、剥がしたままずっと手に持っていた目張りをおっかなびっくり貼りなおしていて、靴下が濡れていることに気づいた。
 先ほど取り落とした花瓶は、幸い割れてはいなかったが、床が水浸しになってしまった。サカキを活けなおして、床を拭いた。ついでに部屋の掃除もしておくことにする。ここしばらくだらだらしていて部屋のことは碌にしていなかった。ずいぶん埃がたまっている。拭き始めたら興が乗り、部屋全体を拭き終わるころには汗みずくになるほど熱中してしまった。雑巾がないので古いシャツを犠牲にしたのだが、あっという間に真っ黒になった。再利用する気にはなれず、そのままゴミ箱に捨ててしまう。
 雑巾がけの途上で集まった洗濯物の一山をまとめて、洗濯機に詰め込む。適当に洗剤を放り込んで、始動する。ごうんごうんという生活音が耳に懐かしく響いた。
 振り返る。仏壇は依然鎮座ましましている。腹の虫が鳴いた。
そうだ、腹ごしらえをしよう、腹がへっては何とやらだ、と思い立ち、買い置きのカップラーメンにお湯を注ぎ、五分待つ。また仏壇と向き合わねばならなくなった。入居したころ2DKを仕切っていたふすまは、大家の許可をとって取り外してしまった。ワンルームよりはマシとはいえ、仏壇を置いておくには、この部屋は狭い。
 やむおえずカップラーメンに意識を向ける。
 カップラーメンにかける五分は無為だ。ラーメンができる間に、と他の事を始めれば高確率でラーメンは伸びる。さりとて何もせず、ラーメンのことだけを考える時間にしては長すぎる。
 ラーメンと仏壇との集中トライアングルに耐え切れず、テレビのリモコンに手を伸ばすが、あるべき場所にない。先ほど掃除をしたときに、適当に脇に除けてしまったので、部屋のあちこちに雑然とした山ができている。あれらの山のうちのどれかにあるのだろう。
 山を崩しながら、何とはなく本は本棚へしまい、雑誌を隅に重ねしているうちに、現実逃避、もとい掃除の続きをしている具合になってきた。山がどんどん仕分けられていく。忙しさにかまけて部屋をほったらかしにしておいただけで、片づけができない男なわけではないのだ。リモコンは途中で見つかったが、ついつい熱中してしまい、気づいたときにはラーメンはやっぱり伸びていた。
 せっかく発見したリモコンでとりあえずテレビをつけ、絶妙に伸びたラーメンをすする。この状況にバラエティの賑々しさがしらじらしい。
 仏壇の中に異常事態が起こっているという事実は変わらないのに、扉一枚隔てただけで、案外に気にならなくなるものだ。「とりあえず、見えない」ということの影響力はすさまじい。
 おっさんは、腹が減らないのだろうか。
 そんな考えが浮かび、妙に落ち着かない。恭二がおっさんの腹の心配をしてやる義理はないのだが、何日食っていないかわからない人間、あるいは人のような何かの前での食事は、扉ごしとはいえ、やはり相手が不法侵入者であろうとも気が引ける。
 侵入者というよりは、闖入者のほうがしっくりくる響きだ。
 半ば飲み込むようにしてラーメンを胃にしまいこみ、空腹をなだめるが、満腹感も満足感もない。食べた後のカップを流しで軽く洗い、ゴミ箱に捨てる。流しに溜まっていたコップやら皿を洗い、ついでにシンクも磨いてみる。さして中身もない三角コーナーのネットを変えたり、炊飯器の上の埃を布巾で拭ったりしてみる。落ち着かない。
 炊事などほとんどしないので台所は特に汚れてはいない。ひととおり布巾でさらさら拭いてみるとすることがなくなった。もはや現実から逃げる場所と行為はどこにもない。
「先輩、早く帰ってきてください」
 恭二は玄関を開けて左右を見回した。隣のドアまで行って、玄関のベルを鳴らしてみるがやはり誰もいないようだ。
 先輩の名を山本晋也という。特に同じサークルやクラブに入っていたとかいうわけではないのだが、知り合った弾みで先輩と呼んでしまってからなんとなく定着してしまった。卒業した今でもそのなんとなくが続いている。
 某社で営業をこなしている山本は柔道歴十二年の男気あふれるナイスガイだ。
 山本は昔から面倒見がよかった。
 頼りがいもあるが、本人も頼られることに慣れているので、周りはますます頼るようになる。そんな有象無象を難なくこなし、特に不満げもなく面倒をみてくれる山本のバイタリティは計り知れない。
 慣れない引越しに頭を悩ませていた恭二にこのアパートを紹介してくれたのも山本である。築四十年と古い建物だが、立地はまあまあでそこそこ使いやすく、何より家賃が相場の三分の二といったお買い得物件だ。丁度隣が空いたから、と大家に紹介してくれ、保証人にまでなろうとしてくれた。さすがにそれは叔母に頼むことにしたが、お節介なところも含めて、やはり山本は快男子である。
 仕事でも好成績をあげ、スポーツマンでもあり、性格、能力、頭脳、どれをとってもパーフェクトに見える山本の唯一の欠点があるとするなら、それは外見である、といえなくもない。
 黒目がちな大きい目はややつりあがり気味で、低い鼻がのっぺらとした印象を与える。唇は薄く、小さく、全体的に体毛が薄い。
 何かに似ている、と恭二は感じていた。この、どこか得体の知れない慨視感……。
 山本を知っている同級生と飲んだときに、友人はぽつりと言った。
「グレイだ」
 なるほど、山本はNASAの拘束された宇宙人、グレイ氏に似ている。しみじみと恭二は頷いたものだ。
 グレイ似の顔が、山本の人格に深みを出しているように見えることもある。理知的であるがつかみ所のない表情は哲学的であるとさえいえ、宇宙の深遠すら覗き見てきたのではないかと疑うに値する。
 しかし、この顔は、初対面の人間に受けが悪い。少し話せば好青年だとわかるのだが、黙っていると冷たくて得体の知れない怪しい人とすら思われかねないのだった。営業で好成績が出せているのは、ひとえに山本の努力と人柄の賜物なのだろう、と恭二は考えている。
 偉大なる人物を乞いながら、いつまでも共用廊下に立ち尽くしているわけにもいかないので、しょんぼり部屋へ帰る。仏壇がのっそりと待っていた。
 静かだ。
 どっしりとした仏壇は微動だにもせず、先ほどの珍事を打ち消すように、しんと構えている。
 ふと、夢を見ていたのではないかという気になった。ははは、仏壇におっさんなんて、そんな馬鹿なこと。恭二は笑い出したい衝動をこらえて、黒い異物にじわじわと近づいた。はっはっはは、そんなことあるわけないじゃないか、仏壇に人が入っているなんて、そんなそんな。馬鹿な馬鹿な。目張りを剥がし、扉をじっとりと開けた。
 頬を汗が伝って落ちる。
 おっさんは、相変わらずの半眼で、どこかもったりとして実感的だった。
「用もねえのに、そう、開けなさんな」
「どうも、すみません」
 恭二はぺこりと頭を下げ、扉を厳かに閉め、目張りを張りなおした。
 軽快な足取りで洗面台に向かう。鏡を見ると、思ったより平静な顔が、崩れた。自分の驚愕の表情に、感情がついてくる形で半ば狂乱した。
 しゃべったー!
 しゃべったよアレどうしようちょっとどうしたらいいかこの状況はどこまでも悪夢めいてちょっとやそっとでは目が醒めそうにない予感に体が震え始めた。
 蛇口から水を最大に出し、ばしゃばしゃと音を立てて顔を洗う。足元に水がこぼれ、水溜りができているが気にならない。洗顔フォームを出して、泡立てる暇も惜しんでそのまま顔に塗りつけ、またばしゃばしゃと洗う。思う存分洗ったあとは、水が流れていくのを呆然と見つめていた。
「ちょっと本当にどうしたらいいのかわからない」
 洗面台に向かってぶつぶつ独り言を言う。もう鏡を見る気にもなれない。
 のろのろと蛇口を閉め、顔も拭かずに玄関へ向かう。そこまでで気力が尽きた。外界へ続くドアを背に体育座りで膝に顔を埋めた。


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ほっとけ 3 


 どのくらいたったろう。
 ドアを通じて背に響く靴音に、恭二は目を覚ました。どうやら眠ってしまっていたらしい。半ば気絶していたのかもしれない。
 おそらくあの靴音は、山本のものだ。元気付いた恭二は、慌ててノブを捻り、体当たりする勢いでドアを開けた。案の定、そこには自室のドアを開けようとする小男の姿があった。
「うわ、びっくりした」
 まろびでた恭二に、さして驚いた風もなく、山本は錠をまわす手も止めなかった。用の済んだ鍵をスーツのポケットに入れ、
「どうしたんだ、そんな慌てて」
 恭二をじろじろ見て、その様子に異変を感じたのだろう、ほとんどない眉を顰めた。
 正気を保つために、顔を乱暴に洗ったせいで、シャツの胸元が未だぐっしょりと濡れている。おそらく顔色は悪いし、もしかしたら震えているかもしれない。
「その、先輩、お願いが」
「なんだ?」
「今夜、泊めてくれませんか? 緊急事態なんです。部屋に不審者が」
「なにい?」
 山本は碌に話も聞かず、上着を脱ぐと鞄と共に自室に放り込み、シャツの腕を捲り上げた。あまり穏やかではない。
「先輩、何をしていらっしゃるんですか?」
「決まったことよ。俺が追い出してやらぁ」
「先輩。ちょっと先輩」
 山本は背が低い。恭二の肩に頭がやっととどくくらいだ。その山本が恭二を見下げるように睨み付けてくる。
「おうよ。そこをどけい」
 山本が恭二の肩を押しのけ、恭二の部屋に入るとき、残していった息が酒臭かった。
「酔ってますね……!」
 慌てて追いすがると「酔ってない。ぜえんぜん酔ってない。酔ってて営業ができるか。俺は酔わないんだ」と冷静なトーンで返答があったが、内容が酔っていることを証明している。
「んん? なんだ、誰もいないじゃないか」
 山本は部屋の中央に仁王立ちになり、辺りを見回した。
「さては俺を恐れて逃げ出したな」
 ふっふっふ、と独り笑み頷くのに、恭二は「いえ、あの」と仏壇を指差した。
「そちらに」
「なんだ、こちらか。……これは、仏壇じゃないのか? こんなもん、おまえん家にあったっけ」
「おばさんからの預かりものなんですよ。改築するとかで」
「それは、おめでとうございます」
 丁寧に頭を下げる山本。耳の後ろまで赤い。
「ありがとうございます。で、ですね、仏壇の、扉を開けると、そこに」
「ほほう」
 山本は目張りを剥がすと、ためらいもせず扉を開いた。
 恭二の位置からは中が見えない。果たして、山本は何を見ているのか。数瞬の沈黙に、恭二は耐えた。やがて、山本は丁重なお辞儀をしながら、
「どうも、お邪魔致しまして、非常に失礼をいたしました」
 静かに扉を閉めて、目張りを貼りなおす。ぶれのない足取りで恭二の隣までやってくると、腕を組んで沈思黙考した。しばらく後、
「なあ、俺、酔ってるなあ」
「いえ、先輩、現実だと思うんです。俺も夢かと思いましたが、やっぱり、現実みたいです」
「いるのか」
「いるんです」
「どうしようかなあ」
「やっぱりそう思いますか」
「そう思うって、お前、どうしたらいいかなあ、あれはなあ、どうだろうなあ」
「そうですよねえ」
「とりあえず、あれは、なんだ、何が目的だ」
「皆目。それがわかれば俺も少しは落ち着けるんですが」
「そうか」
「そうなんです」
「暴れたりとかは、しないのか」
「してくれないんです。無害なんです」
「いるだけなんだな」
「いるだけなんです」
「それは、困ったな」
「困ってます」
「よし」
「はあ」
「追い出そう。とりあえず、あれだ。仏壇の中にいるってのが、あれなんだ。なあ?」
「それは、そうです」
「こう、仏壇の外に出しちまえば、ただのおっさんじゃねえか?」
「妙案ですが、怖いです」
「何が」
「なんとなくが」
 山本は呆れ返った顔で恭二を見た。
「男ならそのくらいで怖がるな! ようし、俺が手本を見せてやる。見てろ。なんだ、ちょっと仏壇に入ってるからって、いい気になりやがって、引きずり出してやる」
 妙な気炎を上げながら、山本は再び仏壇に向かった。目張りを剥がし、慎重に扉を開ける。一呼吸おいて、中の一点を睨みつける。やはりいるらしい。
「おう、あんた。他人の家の仏壇に入るってのは、どういう了見だ」
 最初は話し合いでいくことにしたようだ。
「そんなに入りたければ、自分の家の仏壇に入ればいいじゃないか。いや、焦って入らなくても、いずれ人はみな仏壇に入る。そうじゃないのか。そんなに焦ってどこへゆく」
 沈黙。
「百歩譲っておまえさんは仏壇に入りたかった、それはいい。仏壇に入る、それもいい。他人の家の仏壇に入る、それもいいだろう」
 よくない。
「だが、入るなら入るで事前にひとことあってもいいんじゃないか。あるべきじゃないのか。どうしても仏壇に入りたい、どうぞよろしくお願いしますと、挨拶があってしかるべきだろう」
 沈黙。
「おふくろさんも泣いているぞ。諦めておとなしく投降しなさい」
 山本は尽きた言葉を探して視線をあちこちにやりながら、しばらく口をぱくぱくさせていたが、
「とりあえず、出て来い。話はそれからだ」
 と切り口上に言った。
 恭二は中が気になって、そろそろと山本の後ろに回って、覗いてみた。居る。
 おっさんは、相変わらずの静かな佇まいで、小さく三角に座っていた。山本の言葉にも、表情を動かすことすらしない。
「……どこのどいつか知らないが、お前、出てこないつもりなら、力ずくでも引きずり出すぞ!」
 沈黙。
 恫喝にも微動だにしないのに焦れた山本は仏壇の中に両手を突っ込むと、おっさんを引っ張り出し始めた。が、おっさんは仏壇に吸い付いたようにびくともしない。動かざること、山の如しである。
「うぬぬぬぬ……」
 柔道黒帯の山本が顔を真っ赤にしておっさんを引っ張っている。筋肉質の腕にみるみる血管が浮き上がってきた。やがて限界が来たらしく、山本は一瞬おっさんから力を抜いた。そのとき。
「喝!」
 大音声であった。
 おっさんが、喝破した。
 山本は声こそ上げなかったが、気を抜いた折であり、尻から崩れて後ろに倒れた。
「先輩」
 恭二が駆け寄って、助け起こす。急いでその場から離れるが、やはりおっさんは追ってこない。相変わらず仏壇に納まっている。
「……不覚」
 山本は半ば呆然として呟いた。続けて、やや感銘を受けたように、
「一声だけで、この俺を転がすとは……」
「あのおっさん、やはり只者じゃありませんね」
「ああ、なかなかやるぜ、あのおっさん」
 二人の間をおっさんに対する一種の敬愛ともいうべきものが駆け抜けた。が、それはほんの一瞬のことだった。
「警察だ」
「は?」
「さっきので酔いが醒めた。お前、冷静に考えろよ。不審者がいるんだから、警察に引き取ってもらうのが筋ってもんだろう」
「ああ! その手が」
 ぱっと明るくなったところを山本に小突かれる。
「あほう。その手しかねえよ。さっさと通報しろ」
「は、はい」
 恭二は携帯電話を引っ張り出すと、一生縁がないと思っていた番号を押した。警察に助けを求めるなど、生まれて初めてである。情けないことに、緊張で指に震えが走る。
 数コール後、事務的な声が「事件ですか? 事故ですか?」と問うてきた。この場合、まあ、事件だろう。
「事件です。不審者が、部屋に……居座って、出て行ってくれなくて、ですね、その、ご協力を」
 喋っているうちに、自分が何を警察に求めているのかわからなくなる。もちろん助けを求めているのであるが、警察官が一人二人来てくれたからといって、あのおっさんをどうこうできるものだろうか。大の男二人(内一人は役立たずであるが、山本が二人分あるために二人としても差し支えなかろう)がかりでなんともならなかったものを。ましてや、警察の権力が通用するような相手には見えない。
 そんなことを考えているうちに、言いよどんでしまう恭二を励ますように、警察からの声は住所等の必要事項を聞き出し、告げた。
「すぐそちらに駐在員が向かいますので、待機してください」
「はい。よろしくお願いします」
 そして通話は切れ、しんとなった携帯電話を、恭二は軽く握り締めるのだった。


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ほっとけ 4 

「つきあわせちゃって、すみません」
「気にすんな」
 恭二と山本は玄関ドアの前の通路で二人並んで腰を下ろしている。中で待とうか外で待とうか悩んだ末、部屋の中に問題があるのだから外で待ったほうがいいだろう、という結論に達したのだ。他にも山本の部屋で待つ、という選択肢もあったが、警察官が来たときにわかりやすいし、万が一おっさんが逃走してしまったら空の仏壇を前に通報のいいわけが立たないし、と部屋の前でたむろすることにした。
「こうして座ってると、高校の頃を思い出すなあ」
「コンビニか? 駅前か?」
「もっぱらコンビニでした。先輩は」
「俺は駅前が多かったかな。まあ、めったにやらなかったけど」
「休日専門ですか」
「平日は忙しかったんだよ。休日も忙しかったけど」
「俺は部活とかやってなかったからなあ」
「まあ、最近は暇があっても地べたには座らんなあ」
「何かためらいが生まれますよね。どうしてかなあ」
「若さか」
「若さかあ。もうないんだなあ」
「切ねえー」
 ところで、と山本が言葉を継いだ。
「緊迫感がないな」
「そういえば」
「普通、もっとこう、驚いたりとか、パニックになったりとか」
「あ、それはもう俺がやりました」
「そうか、普通だな」
「はい。俺はごく普通の人間ですから」
「それはともかく、不審者がこんなに近くにいるってのに、おかしな感じだな、と」
「それはそう思います。すごく変です」
「あのおっさん、何者なんだろう」
「おばにも問い合わせたんですが、知らないみたいで」
 恭二は仏壇とおっさんの関係について、手に入れた限りの情報を山本に話した。
「そうか、お前もお前なりにいろいろがんばったんだな」
「先輩」
 ねぎらわれて胸が熱くなる。そう、恭二も結局何をどうすることもできなくとも、自分なりにせいいっぱいがんばったんだ。
「最初に警察呼べよ」
「うう」
 己の至らなさに落ち込む恭二の尻に、革靴が鉄階段を蹴る響きが伝わってきた。
 早足でこちらにやってくる、それは、
「坂上恭二さんですか?」
 凛々しい青い制服を着た、二人組みの警察官だった。礼儀正しそうな爽やか風の若い男性と、浅黒く日焼けしたサーファー風中年までもうちょっと男性だ。
「あ、はい。坂上です」
「隣の部屋の山本といいます」
 立って挨拶する二人に、サーファー風が「久賀崎です」若い方が「宮前です」と名乗る。
「それで、不審者というのは、どこに?」
「部屋の中です。部屋の仏壇の中です」
「仏壇?」
 警察官二人はちょっと顔を見合わせて首を傾げた。
「仏壇に、立てこもってるんですか?」
「罰当たりですね」
 宮前が呟いた。久賀崎がそれを目で叱責して、
「では、部屋に入らせてもらってよろしいですか」
「あ、はい。お願いします。あ、鍵は開いてますので」
 ドアの前を離れ、警察官たちに道を空ける。
「おい、行くぞ」
「はい!」
 警察官たちは銃を抜くこともなく、ちゃんと靴を脱いで部屋に入っていった。非常事態だから、土足で踏み込まれても諦めるしかないと思っていた恭二は内心胸を撫で下ろす。
 頼りにならないかも、と予感したのは間違いだったようだ。二人の警察官は威風堂々、到着と同時に不安を追い払ってくれた。きびきびした態度に安堵を覚える。これなら、あの得体の知れないおっさんも何とかなるかもしれない。
「大丈夫そうだな」
 隣で山本も頼もしそうに二人の背中を見ている。もう一安心だ。
 邪魔になるといけないので、全開にしたドアから中を注視する。久賀崎が仏壇の扉を開けるところだった。
 宮前がびくっと身を引いた。民間人の手前、悲鳴をかろうじてこらえたようだ。久賀崎は少し考え込む様子でじっと仏壇の中を見ていたが、やがて、恭二のほうをゆっくりと振り返ると、
「異常ないようですが」
「は?」
「へ?」
「先輩?」
 と、これは恭二ではない。宮前が久賀崎を呼んだ声だ。
「先輩、あの、すごく異常だと思うんですが」
 宮前は怯えを隠し切れず、びくつきながら仏壇を横目で見ている。
「何言ってんだ、何もないじゃないか」
「ええ?」
 恭二と山本はどかどかと靴を脱ぎ捨て、仏壇の前に立った。だがやはりおっさんはそこにいる。
「おっさ……初老の紳士が見えませんか?」
「はあ、見えませんねえ」
 久賀崎は疑い深いまなざしで、仏壇よりもむしろ恭二を見ている。
「いる、よな……?」
 山本も目の周りを揉んだりしてよくよく仏壇の中を凝視している。久賀崎はおずおずと、
「あの、失礼ですが」
 と山本に話しかけた。
「お二人とも、酔っておられますね? その、お酒のにおいが……」
「酔ってる、んでしょうか、ねえ、やっぱり?」
 山本は自信なさげだった。
「先輩はともかく、俺はしらふですよ。今日は一滴も飲んでませんし」
「はあ」
 どうやらこの警察官にはおっさんが見えないらしい。狭い部屋の中にぎゅうぎゅうに、男四人と仏壇の中におっさん。恭二はこめかみをやたらと揉んだ。現場は奇妙な空気に支配されている。そんな中、
「あの、先輩。僕には仏壇の中に男性一名が座ってるのが見えるんですが……」
 宮前が勇気ある発言をした。久賀崎に睨まれて、少し竦むが、やはり見えるものは見えるのだろう。仏壇の中をちらりと再確認して、
「やっぱりいます」
 と情けなさそうに呟いた。
「てことは、俺にだけ見えないってことか?」
 久賀崎が仲間はずれにされたような顔でぽつりと言う。
「あるいは、宮前がおかしなものに感染したか」
「先輩ひどい」
 恭二は一言挟まねばならなかった。
「あの、妙なクスリとかお疑いなら、やってませんし、なんなら家捜ししていただいても構いませんので」
「いえ、そういうニオイはしませんが……まあ、念のため」
 久賀崎は真面目なのか、恭二の言質をとって本当に家捜しを始めた。
「ああ、生まれて初めての家宅捜索」
 恭二は嘆きを口にしたが、久賀崎は「了解は得ましたので」とてきぱきとした態度を止めない。立ったり座ったり、部屋のあちこちを手際よく調べていく。幸い部屋は片付けたばかりだし、久賀崎も必要以上に荒らすことはしなかったので家捜しの後も大して変化はなかったのが救いだった。
「麻薬の類は何もないようですね」
 すっくと立ち上がった久賀崎の背の向こうにおっさんが鎮座しているのが見える。清廉潔白な警察官とのそのコントラストに、恭二は自分の素面に自信が持てなくなり、目頭をぎゅっと抑えた。
 そんな恭二を見て、久賀崎は勘違いをしたらしく、
「妙な疑いをかけてもうしわけありませんでした」
 とふかぶかと頭を下げた。恭二は慌てて「頭を上げてください。そんなんじゃないんです」と頼まねばならなかった。
「ちょっと疲れただけなので、お気になさらずに」
「はあ、しかし」
「いいんです。探していいって言ったのは俺ですから。正直自分の正気を疑いつつありますし」
「いえ、そんなことは」
「あのう、僕も正気じゃないんでしょうか」
 おっさんが見える警察官、宮前がしょんぼりと言った。「ううむ」と久賀崎が唸ってすぐ、名案を思いついたらしく顔を輝かせた。
「そうだ、お前がやれ」
「え」
 やれ、といわれたところの宮前は「何を?」という風にきょとんと目を見開いた。
「ここにいる警察官は二人。内一人は事態に対応できない。よって、お前がこの場を仕切れ。俺はサポートに回る」
「じじ事態に対応できないっていうのはむしろ僕のほうじゃないかと思うんですが」
 身を縮こめるばかりである。確かに対応できていない。
 が、久賀崎は特に意地悪をしているわけではないらしい。この場にふさわしい解決策を模索しているのだろう、合理的で柔軟性がある。優秀だ。だが、だからといって出世できるかは怪しい。こんなわけのわからない案件に誠実に対応するようでは、栄達への道はなかなか険しいかもしれない。世知辛い世の中である。
「みなさまの安全を守るのが警察官の役目だろ」
 正論には勝てなかったらしい。もじもじと仏壇に向き直る。
「で、では」
 背後の三人を縋るような目で見回し、おっさんを説得にかかるが、微妙に視線を外しているので言葉に力がない。
「あのう、その、で、出てきてもらえないでしょうか……」
「もっと強気でいけー」
 見えていない久賀崎は気楽に指示をとばす。「えっ」と抗議のそぶりを見せた宮前だが、先輩には逆らえないようだ。が、
「き、貴殿は完全に包囲されておりますっ。即刻そこから立ち去りなさいませっ」
 狼狽している。久賀崎は痛ましげに首を振った。おっさんは馬耳東風のおももちで鎮と座ったままだ。
「で、出てこないなら、力づくでいきますよっ! いいんですねっ」
「よし、いけ」
「えぇっ!」
 僕がですか、と自分を指差しながら、宮前はぱくぱくと口を動かした。久賀崎は非情にも、
「俺は見えないからな、どこを触ったものかもわからん。お前やれ」
 宮前は「ふぇえ」と夏の終わりの蚊が羽ばたくような音を出した後、しばらく床板の模様を暗記していたが、やがて無言の圧力に負けた。覚悟を決めたのか、気丈にもおっさんに向かって手を差し出す。むろん、引っ張り出すためである。
 わなわな震える宮前の指がおっさんの襟にかかるかかからないか、そのときであった。
「渇ッ!」
「きゃっ」
 宮前ははじかれたように尻餅をついた。恭二も思わず後ずさって壁に背中をぶつけてしまった。山本はあらかじめ身構えていたようで腰が落ち着いているし、何事もないようにしているのは久賀崎のみだった。
「おい、大丈夫か?」
 腰の抜けた宮前に手を貸して立たせてやっている。
「今、何か聞こえたような気がしたが……。かっ、とかなんとか……何か弾いたような音が」
「聞こえたんですかっ?」
 恭二は久賀崎に詰め寄った。
「じゃあ、やっぱりいるんです。おっさんが……そこにはおっさんがいるんだ!」
 やや劇的に頭を抱える。
「坂上、落ち着け」
 そんな恭二の肩を、山本がなだめるように叩いた。
「うぅーむ」
 久賀崎は唸りながら、不思議そうに仏壇を眺め回した。
「やっぱり、何もないんだけどなぁ」
 ふいに中に手を突っ込む。
「あ」
「お」
「え」
 久賀崎の手は、おっさんを突き抜けて動いていた。その動きは、見えない者には空気をかき回しているようにしか見えない。
「せ、先輩。手が、手が消えて……ていうか、おっさんの中に」
「何?」
 さすがに気味が悪くなったのか、久賀崎はさっと手を引き抜くと握ったり開いたりしながら、よくよく確認した。
「なんともないようだが」
 残りの三人は久賀崎と仏壇を交互に眺め回して呆然とするしかなかった。久賀崎がおっさんに何の影響力も持たないことも信じられなかったが、おっさんが久賀崎に何もしなかった、ということも三人の度肝を抜いていた。
「噛みつくくらい、するかと思ったのに」
 宮前が何気に怖いことをいっている。
「僕なんか怒鳴られましたよ」
「あ、俺も怒鳴られました。あれは驚きましたね。腰が抜けましたよ」
 山本が言うと、宮前はうれしそうにした。
「ほんとですか? いや、先ほどは尻餅なんかついて、お恥ずかしい」
「いやいや、俺も思いっきり尻餅つきました。なあ、坂上」
「は、はい。酔いが醒めたって言ってましたね」
「なんだ、そうだったんですか」
 自分だけじゃないと知って、宮前はやや朗らかさを取り戻した。おっさんに対して腰が引けまくっていたのを、内心気にしていたのだろう。
「いや、無理もないですよ」
 恭二はしみじみと肯いた。
「怖いですもん」
 そこはかとなく和気藹々とした空気の中、久賀崎がぽつり呟く。
「つーか、これは、超常現象……というか、お化けなのでは?」
 急に冷えたような一室の仏壇に、未だおっさんはちんまりと納まっている。


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ほっとけ 5 


「結局、どうにもならなかったな」
「ご厄介をかけます」
「気にするな。仏壇が片付くまで、遠慮なく泊まっていけ」
 恭二は当初の予定通り山本宅に泊めてもらうことになった。
 警察官二人は「お化けの類は取り締まるわけにもいかないので」ともっともなことを言って、帰っていった。しかし「何か困ったことがあったら、すぐご連絡ください」と駐在所の電話番号メモを残していってくれたので、久賀崎が良心的な警察官であることに変わりはない。
 よい人だ、だがこの場合警察官より坊主や祈祷師にお願いしたほうが良いかもしれない、と恭二は携帯電話のアドレス帳に駐在所の番号を入力しながらため息をついた。
「やっぱり、あれはお化けなんでしょうか」
「状況からいって、まず間違いないだろう」
 泊まり賃に、と坂上宅の冷蔵庫から持ってきたビールをすすりながら山本は重みのある頷きを返した。
「お化けかあ。お化けって、あんなにはっきり見えるものなんですね。足もあるし」
「俺なんか、触っちゃったぜ」
「ど、どんなでした?」
「普通だった。手ごたえも確かにあったのになあ」
「ははあ。あ、そういえば、俺も触ったかも」
「いつの間に」
「最初にお目見えした、どさくさに。ああ、そういえば、喋ったし」
「渇っ、じゃないやつか?」
「用もないのに開けるなって、ごく淡々と」
「……ちょっと怖いな」
「怖いでしょう?」
 などといいながら、大雑把に切ったかまぼこをつまむ。チーズとするめにマヨネーズが添えてある、簡単なおつまみの皿を前に、山本と恭二はとりあえず飲むことにしたのだった。
「しかし、お前のおばさんも大変なものを押し付けてくれたなあ」
「ああ、それなんですけど、おばさんは知らないみたいなんですよね」
「知らないふりをしてるだけじゃないのか? 改築が終わっても、引取りに来なかったりして」
「やめてくださいよ。怖いじゃないですか。それに、大丈夫です。土曜に一度来てもらう約束がしてあるので」
「明後日か。すぐに来てもらえないのか?」
「家移りしたばかりだから、いろいろ忙しいみたいで」
「んん、まあ、大変だなあ」
「大変ですねえ」
「人事みたいに」
「先輩こそ。仏壇がどうにかならないかぎり、俺ここに居座り続けますよ?」
「あー、大変だなあ」
「大変です」
「とりあえず、ビール」
「はい、どうぞ」
 六本パックのビールはもう残り一本になっていた。
 その日は取り立てていい考えが浮かぶこともなく、おっさんの素性を云々するも確かなことがわかるはずもなく、酒をかっ食らって眠るばかりとなった。
「とりあえず、土曜日を待とう」
 山本が一声あげていびきをかいた。
眠りこける山本の隣で残ったビールをちびちびやりながら、壁の向こうの自分の部屋を透かし見るようにして、恭二は朝顔が萎れるように肩を落とした。
今夜は眠れそうにない。


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