階段を上がると、あの世だった。
なぜそんなことがわかったかというと、
「ようこそいらっしゃいましたー、ここはあの世でございまあす」
白っぽい服を着た無表情な女性が現れてそう迎えてくれたからだ。
きりっとした顔立ちの美人なのだが、いきなりそんなことを告げられても困る。困るというか、おかしいだろこの状況。
「いやあ、そんなことをいわれても」
「突然の環境の変化にはとまどいがつきものです。どうぞ楽になさって、周りを見て御覧なさい」
そう言われて足元を見ると、汚いコンクリートの階段が白い大理石に変わっていた。
白っぽい靄のような雲のようなものが辺りを覆い、光に満ち溢れ、どこまでも見通せそうで、何も見えない。目に映るのは、ただただ一面の白である。
わたしは新宿の雑居ビルの外階段を上っていたはずだ。こんなに美しい場所は知らない。
「ここは?」
いささか慌てながら問うと、
「だからあの世だっつーてんだろーが。飲み込み悪いなあ」
と返された。このひと言葉が悪い。
「はあ。では、というか、あなたは誰ですか?」
「わたくしは案内人です。この階段の担当でして、ここのところ上ってくる人が引きもきらず、あー疲れたなー休みたいなーと思っていたところ、やっと休息を取れる暇ができ、腰をおろしたとたんにあなたが現れたというわけです。ようこそいらっしゃいました」
まだよく状況は飲み込めないが、まったく歓迎されていないことはよくわかった。
「それは、お邪魔してどうもすみません」
機嫌を損ねないほうがよさそうだったので、とりあえず謝っておくことにした。
「いえいえ、まったくです」
謝罪は無駄な行為だったように思えた。
彼女は相変わらずの無表情で、
「それでは、残りの階段を上がっていただきます。上りきったあたりで、いわゆる天国か地獄か、どっちか適当に行き着きますので、上りながら今生の反省でもしてくださいねー。採点にはそれほど影響しませんが、死ぬほど悔やめば地獄落ちのひとでも天国に行けるかもしれません」
べらべらべらっと捲くし立てた。かと思えば、むっつり口を噤んでわたしにプレッシャーをかけてくる。「余計な質問しないで、とっとと行け」という念がひしひしと伝わってくるが、こんなところで気を使う気はない。
「え、ええと、ということは、わたしは死んだんですか?そんな馬鹿な」
彼女は無表情をくずして、わざわざうんざりした表情を作ってくれた。
「ですからここはあの世ですってばー。あなたが死んだかどうかは、うーん、的確にいうと、半死にくらいですかねー」
「半分死んでる!」
わたしはショックに耐えようと身構えたが、自分が死んでいることに対する衝撃が思ったより少なかったので、自らのオーバーアクションを恥ずかしく思った。が、反省している場合ではないのだ。
「それでは、半分は生きているということになりますよね?今から戻れば生き返ったり」
「あー、それですね。生き返るケースもありますが、たいていはまた上がってこられます。蘇生できる可能性はたいへん低いので、戻っても苦しいだけですよ多分」
「その可能性にわたしは賭けたいっ!」
わたしはそう宣言した。生き返れるなら多少痛くてもかまわない。生きてることは素晴らしいのだ。彼女は露骨に嫌そうなそぶりで手元の用紙に何か記入を始めた。
「うー、生き返ると皆ここのこと忘れちゃうんだよなー、もう一回説明すんの面倒だなー。でも、まあ、あなたの人生ですから、仕方ない。どうぞお戻りください」
彼女はにっこりと笑ってくれた。笑うと今までの毒舌がさらっと水に流せてしまうほどにうつくしい。
わたしは急に彼女と別れるのが惜しくなった。何しろ、今までの人生で見たこともないほどの美人なのだ。せっかくだからちょっと積極的に出てみようと、彼女の手を握ってこう言った。
「生き返れるのは嬉しいですが、あなたを忘れてしまうなんて、悲しすぎます。あなたのように美しい女性は現世にはいません。また逢うときまで、わたしのことを覚えていてくれますか」
視線に熱い想いをこめながら、じっと見つめるわたしに、彼女はどうでもよさそうに呟いた。
「勘違いされる方がたまにいるんですが、わたくしは男ですよ」
「ええーっ」
わたしは一本背負いされたような衝撃を感じてよろめいた。足が階段を踏み外して彼女……じゃなかった彼が視界から消えていく。
「もうこないでくださいねー」
というやる気のない声が足元のほうから聞こえた。
「おい、意識が戻ったぞ!」
野太い声を耳が拾った。
「大丈夫ですか?あなた、階段から落ちたんですよ。覚えてますか?」
全身が鋭く痛んで身動きもできない。少しずつ首を回して辺りを確認すると、どうやら救急車の中らしい。頼もしい救急隊員の中に、ひとり場違いな柄の悪い男がいた。男はほっとしたように言った。
「おお、良かった良かった。死ぬなら借金返してからにしろよ」
そうだった。すっかり忘れていたが、わたしは借金まみれであった。階段から落ちたのは、返済に猶予を求めようとこの男に会いに行く途中だったのだ。
わたしは朦朧とする頭で、死んだほうが良かったかもしれないと考えた。だが、死ぬのもちょっとなあ、と思う。とりあえず階段は二度と上りたくないような気がした。
生きるのも嫌だが、死ぬのも嫌だなあ。
そんなことを考えて、わたしは絶望のままにまぶたを閉じたのであった。
*グロテスクと思われる表現があります。
*小さい虫がぎゅうぎゅうに集まってる様子とかが苦手な方はご注意かもです。
目を病んだ。
まぶたの裏にできものができたのだ。それらは無数にぷくぷくと浮いてきて、たいへんに痒い。目が見えなくなったわけではないが、まぶたを開けられなければ同じことだ。
「すごい顔ですねえ」
見舞いに来てくれた知人が言う。声に驚嘆が含まれていてはなはだ面白くない。
「医者はなんと?」
知るものか。塗り薬を処方して「ものもらい」だとぬかしおったが、それで納得できるほど症状は甘くない。痛痒さと、ものの見えぬ不自由のせいで、最近の私は不機嫌極まりなかった。
むっつりと黙り込んだ私を気遣ってか、知人は「くだものを持ってきましたので」と後で食べるように勧めて帰ってしまった。
私は少々気鬱になりながら反省した。知人は悪くない。病人の不機嫌に付き合わせてしまって申し訳ないことをした。
手鏡を取り、意外に伸びるまぶたをこじ開けて、その隙間から鏡に映る己を見た。
まったく、なんて顔だ。
まぶたは異常に腫れ上がり、らんちゅうの頭のごとくであった。ううむ、痒い。
鏡を置き、綿棒に塗り薬を擦り付ける。それでできものに薬を塗ろうと試みながら、私はあることに気が付いた。まぶたの中に明かりが差し込むと同時に、見えるはずのないものが見えたのだ。
当初あぶくのように見えたそれは、ぬらりと光って眼球になった。白目の部分は充血しているが、茶色の虹彩が澄んでうつくしかった。
どうやら私自身のものらしいと直感したが、それはありえない。私は綿棒の先の塗り薬を見ているのだ。いやどこを見ているにしても、いくら視界が広かろうが狭かろうが、己の目玉を己の目でみることなどできるものか。鏡を使わずに自分の顔を見るのと同じではないか。いったいどういうことだ。
不審に思いながら、麺棒から視線を外し、オドオドと辺りを確認してみる。何もない。さては幻覚でもみたものか。まさかまぶたの裏に目があったりしてな、と苦笑しながら、できもので盛り上がった皮を持ち上げて、じっと観察してみる。何かが動いた。
声もない。
まぶたの裏には、無数の小さな目玉がぎょろりとこちらを伺っていた。
見間違いを期待してもう一度確認する。いる。こちらを見つめている。ひしめいている。
私は途方にくれてまぶたをもどした。痒みが激しくなってきていたが、そんなことを気にする余裕はなかった。なんだこれは。
しばらく呆然としていたが、急に悲しくなって涙がこぼれてきた。これはきっと、「途方にくれた」が極まったせいだろう。子どものようにしゃくりあげながら、だらだらと涙をこぼす。目に触れるのが怖いので拭うこともできない。
おんおん泣いていると、涙と一緒に何かがぽろぽろと膝の上に落ちるのを感じた。
見える。
私が泣いている。
わけもわからずにどんどん泣くと、泣いている私もどんどん増えた。
泣いて泣いて、泣き疲れて涙も出なくなったころ。ふと気が付くと目に異物感がなくなっていた。腫れぼったくはあるが、これは泣きすぎたせいだろう。
開くようになった目で、おそるおそる膝の上を確認すると、無数の小さな目玉がこちらを見つめていた。私はそれらを見つめる無数の私自身も同時に見た。トンボになった気分だ。
にわかに好奇心が湧き上がる。
たくさんの目玉のうちひとつを手にのせてみる。それはくるりと回っていじらしく私を見つめた。意外に愛嬌がある。まぶたの内にあるときは恐ろしくも感じたが、私からこぼれて尚、それはまぎれもなく私の一部であった。
目玉は私の手のひらの上で嬉しそうに私を見つめている。その目玉に映った私もまた喜びの中にあった。
急にそれが愛しくなった私は、衝動的に小さな目玉を飲み込んだ。
目玉は再び私の内側へ戻り、今度はまぶたの裏ではなく、手のひらに出現した。面白くなって次々に飲み込む。体中が目玉でいっぱいになり、私はかつてない幸福に見舞われた。
こうして私はひとでないものになった。
「パセリの根元には、妖精が住んでいるのですよ」
「はあ」
町田くんは青い空を見上げながら生返事をした。
雲が目の端をかすめ、白を追えばどこかで鳥の鳴き声が。
「あれ、先生、ヒバリってチーと鳴きましたっけ」
「さあ、チーはスズメではないですか?」
「スズメはチュンではないかと思うのですが」
「難しい問題ですね。後で調べておきましょう」
「はあ」
ひとり難しげに頷く先生をまじまじと見つめながら、町田くんは思った。
なんで、おれ、こんなところにいるんだっけ?
考えても考えても、どうしてもわからない。そもそもこの先生とやらは誰であったろうか。町田くんは目を眇めた。考え事をするときの癖である。先生の眼鏡がぴかぴか光って眩しいせいでもある。
先生は丸い眼鏡をかけていた。中肉中背で、髪が灰色をしている。なのにそう年をとっているとも思えない。老成した若々しさという矛盾を体のうちに抱え込んでいるようであった。
「それで、パセリなのですが」
先生が生真面目な顔で口を開いた。
「パセリ?」
「妖精が」
「はあ」
町田くんはぽかんとパセリを見下ろした。妖精らしきものは見当たらない。
「いませんが」
「ひとには見えないのですよ。めったに」
たまには見えるということなのだろうか。町田くんは先生に質問しようとしたが、なんとなく口を噤んだ。雨がぽつりと町田くんの鼻を叩いた。
「おや、お天気雨ですね」
「雨ですね」
町田くんは空を見上げた。相変わらずの青空である。雨を降らせている雲を探したが、いくつか浮かんでいる雲のどれかをそれと言い当てることは不可能のように思えた。あるいは、すべての雲が少しずつ降らせているのかもしれない。
先生は水滴がついた眼鏡を外して、白衣のポケットから出した布で拭いている。
ぽつりぽつり、濡れた地面の面積が増してゆく。
ふたり共、何をするでもなくパセリの近くで雨に打たれている。
「意外に、まぶしいものですね」
「太陽ですか」
「はい、お日様が」
「さしていますねえ」
「はい」
町田くんは濡れた地面を靴のつま先で少し抉った。悪いことをしたような気がして靴の底ですぐに均した。紫陽花を見たいと切に思った。
「パセリはね」
しゃがみこんだ先生が言う。白衣の裾がじわりと湿った。
「繁殖力が強いと言われているんですよ」
「はあ」
「ほうっておいても、どんどん増える」
「はあ」
「というわけでもない」
「はあ」
先生は町田くんを見上げて笑った。
「まじめに聞いていませんね」
「いえ、そうでもありません」
慌てた風もなく町田くんは答えた。先生の話はどうでもよいことのように思えたが、先生の言葉を聴きたいと思った。このふたつは、同じことだろうか、違うことだろうか。町田くんは考えかけたが、考えても理解できそうになかったので、放っておくことにした。「わたしはね」先生が続ける。
「パセリは強い、というのを頭から信じてしまって、地面をちょっと掘り返して種を植えたんです。そのまま何もしなかった」
「芽は出ましたか」
「出ました」
水滴を含んだパセリが、風にあおられてふわりと香る。
「出ましたが、育ちませんでした」
「残念でしたね」
「強いから、どんな場所にでも、どんな蒔き方をしても、立派に育つだろう、という予想を裏切られて、大変がっかりしました」
「それは、それは……」
「大変身勝手ですね」
「はあ」
先生はパセリの縮れた葉の先を指でつんつん突ついている。
「芽はね、蒔いた種の、三分の一も出ませんでした。けれどね、地面からちょこちょこ顔を出した、小さな緑の葉っぱが、とてもきれいだったことが忘れられません」
町田くんはパセリの小さな芽を想像した。いつか見たことがあるような気がした。
「枯らしてしまいました」
先生の白い背中が小さくなった。
「栄枯盛衰ですね」
町田くんはなんとなく呟いた。先生の背中が小刻みに震えた。
「ちょっと違うと思います」
振り向いた先生の顔は笑っていた。
町田くんは心がざわめくのを感じてそれを鎮めたいと少し焦った。救いを求めて目をさまよわせる。なぜか視線は地面を追った。そこに紫陽花を見つけて「ああ」。
「どうかしましたか?」
「先生、紫陽花です」
「綺麗ですね」
「はい」
「紫陽花が好きですか?」
「はい」
町田くんは紫陽花の根元に行きたいと思った。そこに座り込んで、足を投げ出して、葉と花の隙間から永遠に空を見上げていたいと思った。だが、体は少しも紫陽花に近づかなかった。
先生は眼鏡を元通りにかけた。
「町田くん、虹がたちましたよ」
空を見上げると、地平線の果てにうっすらと輝きが見えた。
町田君は、ここはどこだったろうとふと思った。
疑念はすぐに溶け、もう一度雨を請う気持ちへと変わった。
パセリが緑を濃くして足元で揺れていた。
遠藤房子は少々神経質なところがあった。
中背で細身の彼女は、胸がないことを気にしているらしい。「腹の肉はごまかせないけど、胸の肉はごまかせるからいいじゃない」と言ったら「デリカシーがない」と怒られてしまったことがある。細かいことに拘らないわたしみたいなのとは合わないタイプの女性であるのだが……。
同僚のわたしは、年が近いせいと、職場に女が少ないということから、彼女に友達として認識されてしまったようである。迷惑なことだ。
しかし、職場の人間関係を重視するわたしとしては、彼女を無下に扱うわけにもいかない。そんなわけで昼休みや仕事帰りに彼女のおしゃべりに付き合わされるはめになった。
たわいのないおしゃべりにふがふがと相槌を打つくらいならばかまわない。が、最近なにやら深刻な相談事まで持ちかけられるようになってしまった。
「私、ストーカーに狙われてるみたいなの」
「……それはそれは」
「まじめに聞いてる?」
また怒られた。
仕方がないので、何を根拠にストーカーされていると思うのか、を丁寧に訊ねる。
「めちゃめちゃ見られてる気がする」
「はあ」
よほどやる気のない発音だったのだろう、睨まれた。
ならば聴く気を起こさせる話方をしてほしいと思いつつ、「どんな風に?」と重ねて訊くと、
「部屋にいるとさあ、背中にすっごい視線感じるの。絶対盗聴器とかあると思ってさあ、なんか、あれ、調べるやつ! 友達に借りて調べたんだけど、何も出てこなくて」
それはストーカーされてないということなんじゃないかな。
「でも視線は感じるんだもん」
「警察に相談したら」
「そんなの無理。動いてくれるわけないじゃない」
それはそうだ。狙われてる気がするくらいで、盗聴器もカメラも仕掛けられてないのに相手にもされないだろう。
「まあねえ。じゃあ、防犯装置とかつけたら」
「そんなお金ないもん」
ぶすっと口を尖らせる。
まあ、いつもの通り気にしすぎなだけだろう、一通り話しつくしてしまえば、精神衛生上のガス抜きは完了である。わたしもここから解放され、快適なでろりとした日常に戻れるのだ。そうしたらとっとと帰ってねっころがってゲームでもやろう。
そんなことを考えていたら、思わぬことを提案されてしまった。
「ね、うちに来てさあ、ちょっと見てみてくれない?」
「何を」
「だって心配なんだもん」
会話がかみ合っていない。
わたしなどに何を見ろというのか。見てどうしろというのか。よくわからないままに「いいから、いいから」と彼女のマンションまで連れて行かれる。
どうしてこんなことに。
わたしはドアの前で途方にくれた。古めの建物だが、質は悪くない。
「あがってー」
部屋の中から彼女が呼びかけてくるので、しぶしぶ入る。
「いい部屋だね」
「でしょ? なんか、家賃が破格に安くってさ、お買い得だったの」
「そうですか」
家賃を聞いてみると、確かに安い。安すぎる。
これはストーカーを疑うよりも成仏できないタイプの人を疑ったほうがいいんじゃないかな、とチラと思うものの、口には出さないでおく。わたしは波風を立てるのは嫌いだ。
「お茶入れるねー」
冷蔵庫からお茶のペットボトルを取り出しながら彼女が言う。
この場合お茶を淹れる、というよりは投入する方の入れるだから言葉使いとしては入れるでいいのかな、などとどうでもいいことを考えつつ、部屋を観察させてもらった。
ソファとテレビとローテーブルと観葉植物。ベッドルームは向こうの部屋なのだろう。2LDKとしては悪くない。
背中に視線を感じる、と言っていたから、ソファの後ろ辺りを怪しんでいると、彼女がお茶のグラスを運んできてくれた。
「そのあたり。何か怪しいよね?」
……わたしは怪しさを感じて怪しんでいたのではないのだけど、という反論はしなかった。面倒くさかったのだ。
「ね、何かおかしい? どこがおかしい?」
「そんなこといわれても」
「お、お化けとかいない?」
あ、やっぱり成仏できない人も疑ってたんだ。
「さあ……ていうか、何でわたしにそんなこと訊くの」
「だって……」
「だって?」
「除霊とかできそうだし」
できねえよ。
彼女の中でわたしはどんなイメージに成長しているのか、本気で心配になってきた。
無言で遠い目をするわたしに、彼女が子犬のような目ですがってきた。
「ね、どうしたらいい? やっぱり何かいるの?」
不安そうな彼女に、「知るかボケ」とは言えなかった。
「……盛り塩とかしたらいいよ」
力ないわたしの声に励まされ、彼女の顔が輝いた。
「塩? それなに? 塩がいるの? ちょっと待って!」
キッチンに駆け込む。「あっ! 塩がない!」という叫びが聞こえてくる。
「ちょっと塩買ってくる! ちょっと待ってて!」
そのままドアに飛びつき、外に消えていくの彼女をわたしは呆と眺めていた。
適当に盛り塩をつくって、すみやかに帰ろう。そう心に決めて、お茶でも飲もうとソファに座ろうとしたときだった。視界の隅に違和感。
「ん?」
よく見ると、壁紙の一部がめくれていた。手抜き工事というか、手抜きリフォームのせいで家賃が安いのだろうか。しかし、よくよく見るとソファ側の壁紙だけ、他の面と少し違うような気がする。
なんだか気になって、少し剥がしてみた。思ったよりも簡単に剥がれる。ぺろりとした手ごたえだ。のりを使わないで貼って剥がせるタイプの壁紙らしい。
どうしてこの面だけ、という疑問はすぐに晴れた。
壁紙の裏が、夏目漱石でびっしりと埋め尽くされていたからだ。
なるほど、彼女を悩ませていた視線は、この漱石が犯人だったのか。わたしは納得した。こんなに大量の漱石に見つめられては、神経質になるのも無理はないかもしれない。
ひとつの謎が解決し、新たな疑問が生まれる。
わたしはこれを追及しようか迷った。即ち、なぜ漱石か、という問いだ。諭吉ならまだ納得できる。しかし漱石では、面積辺りの金額があまりにも低い。こうまでして隠す意味が良くわからない。
しばし迷った後、わたしは壁紙を元に戻した。
わたしは波風を立てないタイプの人間なのだ。
のんびりお茶を飲んでいると、彼女が塩を抱えて帰ってきた。
わたしは部屋の四隅に盛り塩をして、「もう心配ないよ」と未だかつてないほど爽やかな笑顔を贈ってあげたのだった。
世はすべからく、こともなし。