寺田和也は絶句した。
 その後、声帯を励ましながら母祥子に問うた。
「これはなんですか」
 そこにはダンボールに入った少女がいた。
 美少女といっていい外見をしているが、いかんせんメイド服を着ており、一般的な男子高生から見ればドン引きの対象である。少女はなぜか体育座りをして、かろうじてその小柄な体が入るくらいのみかんの箱に入っていた。神妙な顔をしてまわりを見回している。
「なにって、かわいいでしょー? 拾っちゃった」
「拾ったって……猫じゃあるまいし、いいかげんなこと言うな」
「ほんとだもん。道端でミーミー鳴いてたのよっ! かわいそうだから拾っちゃった」
「だから、拾うなっつってんだろこの馬鹿親っ」
「ひ、ひどいっ。そんな言い方ないじゃないっ。そこまで誰が大きくしてあげたと思ってるのっ!」
 母と息子が骨肉の争いを繰り広げる中、少女は自己紹介を始めた。
「わたくしはガイノイド、愛称をアイリーンと申します。以後ご厄介になりますのでどうぞよろしく」
 ぴたりと口を閉じたのは母子共だったが、再び口を開いたのは母のほうが早かった。
「あらっ、アイリーンちゃんていうのねっ。かわいい名前。こちらこそよろしくぅ」
「よろしくじゃないだろ、ガイノイドって何だよ。以後ご厄介ってなんなんだよ」
 祥子はできの悪い息子を見る目をした。
 得意気に説明をしてくれる。
「ガイノイドっていったら、人型ロボットのことじゃない。俗にいうアンドロイドねっ。その中でも女性の形をしたものをガイノイドっていうのよ。一般常識くらいわきまえなさい、情けない」
「それ一般常識じゃないだろ。オタクの常識かもしれないけど知らなくても生きていける情報は一般的じゃないだろ。それ以前に一般常識とかいう問題じゃないって。大体どこがロボットなんだよ。ちょっと危ない人間の女の子かもしれないじゃないか。ていうかそうだろ。警察に電話しないと……」
「あら、だってここにスイッチがあるもの」
 祥子はそう言いながらアイリーンの右耳の後ろを探った。
 するとパソコンを終了したときのような音がかすかに聞こえ、アイリーンは玄関に箱ごとのっしりと横たわった。
「おいおい、そんな演技に付き合うことないぞ」
 和也が苦笑しながらほっそりした肩を揺さぶるが、ぴくりとも動かない。ふざけた気分のまま脈を取ってみるが、そんなものはなかった。見事に停止している。
 だらだらと嫌な汗を流す和也に、祥子は「ダメな子ねえ」と言い放ってもう一度スイッチを押した。「みー」とか「ちー」とか「フイーン」とかいう音が聞こえてきて、アイリーンが無造作に起き上がる。倒れてしまったみかん箱を元通りにすると、そのまま何事もなかったかのように体育座りをしてその中に納まった。和也は目の前で起きたことを理解しきれず、呆然と床にへたりこんだ。
 祥子が明るく言う。
「アイリーンちゃんたら。もうそこから出てきてもいいのよ。おねーさんが拾ってあげましたからねー」
 アイリーンをなだめながら立ち上がらせ、和気藹々と居間へ入っていく彼女たちの後ろで、和也は「ありえねえ……!」と呟きながら玄関の床を叩き続けた。


→進む



 こじんまりとした居間の二万九千七百円のソファにアイリーンが腰掛けると、ソファはこれは規格外ですとでもいう風に軋んだ。見かけよりもかなり重いらしい。
「壊すなよ」
 現実を何とか受け入れたのか、後から入ってきた和也が言うと、アイリーンは「はい」と神妙に頷き、空気椅子モードに移行した。ソファのスプリングが嬉しげに元に戻る。
 ソファと尻の間にかすかな空間を作って微動だにしない彼女の斜向かいに腰掛けながら、和也はすべき質問を考えた。何も思いつかない。
「本当にお前……あー、ロボットなのか?」
 仕方なく発した場つなぎ的な率直な問いに、アイリーンは「わかりやすい証拠が必要ですか?」と問い返し、和也が戸惑っている間に自らの腕を外してみせた。
「げ」
 アイリーンは外した腕を和也に渡そうとする。和也はやや体を引きながらもそれを受け取った。
「重っ……!」
 片手では支えきれず、腕の片端を床に落としてしまう。鉄アレイを落としたときのような鈍い音がした。
「手荒に扱わないでください。スペアがありませんので」
 あくまでも冷静にアイリーンが言う。
「ああ、ごめん……」
 謝りながら、よくよく観察してみるが、和也の目にはよくできた義手のようにも見えた。
 腕はつるりとした滑らかな皮膚で覆われ、爪、産毛にいたるまで人間のそれとそっくりである。ただひどく冷たい。ぎゅっと握ると皮膚のすぐ下に何か硬質なものを感じた。
 接合面はプラスチックのようなものでカバーされ、輪を作るように点々と穴が開いている。覗き込むと何かが動いた。
 思わずぎょっとして腕を放り出そうとした和也から、アイリーンが腕を支えた。
「今動いたのは腕と肩を接続する端子の一部です。問題ありません」
「そ、そうか……」
 和也はうろたえたことを微かに恥じた。アイリーンは無機質な顔をしている。
 先ほどよりも近くなった目を見つめると瞳の虹彩が動いたような気がした。
 目が大きく、まつげが長い。薄い茶色の髪は長く、肩からこぼれて和也の手をさらりとくすぐった。
 和也が左手を挙げて、アイリーンの顎をそっと掴んだとき。
「あぁーら、お邪魔だったかしらー」
 祥子が湯飲みを載せた盆を持ち、冷やかすように現れた。
「邪魔だよ。今スイッチとやらを確認しようと思って……」
「ああいやだいやだ。不躾な男は嫌われるわよ。アンドロイドを落とそうと思ったらねえ、人間として扱わなきゃダメなの。自我に目覚め始めた彼女は、主人公のそういう優しさに触れて人としての心を持ちました、てのがセオリーというものよ。そういう筋書きしか、とりえのないダメ男が可愛いアンドロイドを手に入れる方法はないの」
「何の話だよ。誰がアンドロイド欲しいって言ったよ。ダメ男って誰だよ。ましてや落とそうとか思ってないし、十七の多感な青年期に変な設定植え付けるな馬鹿親」
 祥子はテーブルに湯飲みを三つ並べながら、
「ひどい。いつものことだけどひどすぎる和也。あたしはただ清く正しくエネルギー溢れる立派な腐男子になって欲しいだけなのに。そして一緒にコスプレイヤーとして華々しく活躍して欲しいだけなのに。どうしてこんな子になっちゃったのかしら」
 と嘆いた。
 和也は湯飲みから熱いお茶をがぶりと飲んでむせながら、
「俺はこんな親に育てられたにしては考えられないくらいまともに育って褒められこそすれ文句を言われる筋合いはこれっぽっちもありません」
 と威張った。
 アイリーンは空気椅子に戻り、腕を元通りに取り付けた。
 祥子がお茶を勧める。
「アイリーンちゃんもどうぞ」
「アンドロイドってお茶とか飲めるのか?」
 息子の疑問に母が答えた。
「当たり前じゃない。今時のアンドロイドはねえ、ちゃんと食事機能っていうのがついてて、人間と同じように食べたり飲んだり舐めたりできるのよっ。ね、アイリーンちゃん」
「今時のっていうか、古今東西アンドロイドいないだろ。俺今日初めて見たんですけど」
「細かいこと気にすると禿げるわよ。そうよねっ、ねっ、アイリーンちゃんっ!」
 祥子に期待を込めて質問というよりは確認されたアイリーンは、機械的に答えた。
「いいえ、わたくしにはそのような機能は付いておりません。わたくしは電気で動くので、食物を摂取する必要はありません」
 がっくりとうなだれる祥子に、納得したように頷く和也。そんな彼らを前にして、アイリーンは湯飲みを手に取り、茶を啜りながらこう続けた。
「ですが温度調節の必要上水分は摂取できますし、舐めることもできます」
「まーっ! そーなのーっ!」
 なぜか嬉しげに目を輝かせる祥子に、和也は、
「御腐黒め……」
 と聞いただけではわからないように罵った。
「何か言った?」
「いえ……」
 祥子が怖いようなにこやかな笑みで和也を威圧するので、彼はいつも通り沈黙を守るしかなかった。その沈黙につけこむように祥子は命じる。
「そうだ、和也、あんた部屋片付けておきなさいね。アイリーンちゃんあんたの部屋に泊めるから」
「な」
 隣で状況を理解したアイリーンが「お世話になります」と礼儀正しく頭を下げる。
 突然のことに言葉を失いかけた和也だったが、慌てて反駁を試みた。
「どうして俺の部屋にこれを置かなきゃならないんだ? だから警察に連絡しろって」
「馬鹿息子っ! こういうときはこうするに決まってるでしょっ!」
 しごく当然といった祥子の叱責が飛ぶ。
「何がどういう法則で動いているのかいつもながら俺にはさっぱりだ!」
 混沌とした世界に向かって吼える息子に、母は毅然とした態度で応じた。
「大体コレとか言うんじゃありません。この子、とか、彼女、とか、もっと可愛く愛情込めて呼びなさい」
 主張する祥子の迫力にたじたじとなる和也。
「あんたは俺に何を求めてるんだ」
「詳しく言うと」
「言わんでいい。言わないでくださいとても嫌な予感がするので」
「そう?」
 残念そうな顔をした祥子だったが、くるりとアイリーンの方を振り返ると、
「そういうわけだから、今日から和也の部屋使っていいわよ。共同でねっ」
 と満面の笑みを振りまいた。が、
「俺は断固拒否する」
 和也はアイリーンの手を引き玄関へと向かった。
「ちょっと、どこ行くの」
 慌てたように止める祥子に、
「だから、警察だよ。落し物は交番へ」
「いやよっ、この子お母さんが拾ったんだからねっ! お母さんのっ」
「コドモかあんたはっ! 常識を考えろよ。百歩譲ってコレがアンドロイドだということは認める。現実を認識する。それを踏まえて俺は交番へ行く。なぜならコレが人でない以上、モノとして扱うべきであり、モノには持ち主がいるからだ」
「あんたってどうしてそんなに余計なところが冷静なのかしら」
 つまらなさそうに祥子が呟いた。
「持ち主なんか無視して、道ならぬ恋にラブラブロマンスしちゃえばいいのに」
 和也はひどく嫌そうに呟いた。
「あんたはすべての一言が余計だ。ほら行くぞ」
 だが、アイリーンの足が止まった。何度か引っ張られてもびくとも動かない。
「わたくしは行きません」
「あ?」
「わたくしはあの場所に戻されたくありません」
「……そういえば、ダンボールに入って泣いてたって……捨てられたのか?」
 訝しげに、やや同情をこめて和也は訊いたが、その問いは肯定されなかった。
「いいえ、わたくしは逃げてきたのです。ですからここに置いていただきたいのです」
「いいわよっ!」
 祥子が嬉々として発言するのを、和也が遮る。
「うるせえよ黙ってろ。……あー、逃げてきてどうしてダンボールに入って泣く必要があるんだ?」
「緊急時のマニュアルにそうありました」
「どんなマニュアルだよ……」
「道端でダンボールに入り、体育座りをして猫の鳴きまねをすること。そうすれば誰か優しい人が通りかかり、拾い、保護してくれる、と」
「いい加減極まりないマニュアルだなそれ。ていうかなくってそっちの鳴くかよ。ほんとにミーミー鳴いてたのか」
「はい。わたくしは室内用なので、長時間外にいることはできません。夜露はボディに毒ですから。また、わたくしが稼動し続けるには、電力を確保する必要があります。ですからわたくしには、保護を与えてくれるご主人様が絶対不可欠なのです」
 祥子の呼吸が荒くなっているのを和也は心の底から忌々しく思った。
「前のご主人様とやらはどうしたんだ?」
「亡くなりました」
「あー……なるほど……」
「わたくしには新しい主人が必要です」
 アイリーンはそっと和也の手をとり、自らの胸へと引き寄せた。上目遣いに小首を傾げ、願うように請うように。
「お願いします。わたくしのご主人様になってください」
 和也は頭が真っ白になった。決してアイリーンに悩殺されたわけではない。背後に感じる熱気にこの後の顛末がたやすく予想できたからである。
「かかか、和也っ、ここで断ったら男じゃないっ! いぃや、あたしの息子じゃない! なっちゃいな、なっちゃいなよご主人様にっ! ヒューヒュー、憎いねこの色男っ! ていうか断ったらもう二度とご飯作ってやんないっていうか家から追い出してやらぁっ!」
 めくるめく目眩の中で、和也は生まれてきた場所を呪った。
 子どもは親を選べない。
 それは残酷な真実だった。



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 六畳一間のこじんまりした和也の私室に、一人と一体が座っている。
 和也が凝視する畳の表には、アイリーンの足跡がかすかについていた。
 どんだけ重いんだこいつは、と和也は嘆きを新たにする。きっと、アイリーンが腰を上げたときには畳に尻の跡が残っていることだろう。
 和也はとりあえず数学の課題をすませることにした。難問は山積みしているが、はっきりいって考えたくない。数式は手ごろな逃避材料だった。
 数問を解き終わって乗ってきたころ、
「そこは間違っています」
 とアイリーンの横槍が入った。
 ちゃぶ台の向こう側からこころもち身を乗り出して和也のノートを覗いている。
 少々の苛立ちとともに、
「どこが違うって?」
 と訊いてみれば、アイリーンは見事な解法を披露した。
 見事すぎて和也には理解できなかった。
「お前、勉強できるのか」
 くやしまぎれに頭をがしがしやりながら訊いてみる。アイリーンは涼しげな顔で答えた。
「一般常識レベルの設問はインプットされています」
「へえ」
「よろしければお教えします」
「いいよ。遠慮します」
 教えてもらってもわからないなら、教えてもらう意味はない。それどころか説明されているのに理解できないとなれば、余計なコンプレックスばかり刺激されていいことは何ひとつない。自分で考えたほうがましである。
「いいえ、お教えさせてください」
「やけに熱心だな。なんでだ?」
 不審に思い、訊いてみる。
 するとアイリーンは節目がちになり、そこから視線をあちこちにさ迷わせ、ついで和也の視線をぐっと捉えて言った。なぜかぽっ、と頬が赤みを増す。
「わたくしは、ご主人様のお役に立ちたいのです」
「……」
「ご主人様」
 更に言い募るアイリーンに、和也は鳥肌をさすりながら言い放った。
「わかった、わかったからその目の演技止めろ。ご主人様も止めてくれお願いします」
 アイリーンは元の無表情に戻った。和也に問うでもなく呟く。
「なぜでしょう。マニュアルにはこうすればどんな男もイチコロ! とありましたのに」
「お前のマニュアルはおかしい。しかも古い。どんな昭和マニュアルだそれ」
 容赦ないツッコミに、更にしょげかえった風情のアンドロイドに、和也はやや同情してしまった。
「つーか、イチコロって、なんで俺をイチコロにしたいんだ? どうして俺がお前のご主人様にならなくちゃならないんだよ。そういうの喜びそうなのを当たったほうが早いだろ。いっぱいいるし……。例えば……」
 うちの親父とか。
 和也はまっさきに思い浮かべてしまった自分の父親を脳内から消去した。胃が痛い。
「ええと、この辺うろついてダンボールに入ってるより、電気街とか行ってみたらどうだ?」
「嫌ですあんなオタクの聖地」
「何でそんなこと知ってるんだお前は」
「あんなところに行ったらわたくしは押し寄せるアンドロイド萌えのむくつけき男たちにもみくちゃにされて壊されてしまうに違いありません」
「……彼らをかばうわけじゃないが、そこまでひどくはないと思うぞ」
「わたくしは貴方様を主人に選んだのです。お願いします。貴方様がはいといってくださるだけで、わたくしは何でもいたします」
「何もして欲しくないんだが。むしろ出てけ」
「だからこそわたくしは貴方様を主人に選んだのです。出て行きません」
「確信犯か」
 保身がかかっているのだから当然だが、思ったより強情なアイリーンに和也は前途多難さを感じうなだれた。
 その和也を励ますように猫が鳴く。
「ニャー」
「おっ、影虎! おかえり俺の癒し!」
 窓の隙間から入ってきた猫にひっしと抱きつく和也を見て、アイリーンはショックを受けたように後ずさった。
「……どうした?」
 和也の問いにも答えず、彼女は何事か考え込んでいるようだったが、しばらくして何かを決意したように顔を上げた。
「その猫はご主人様の猫ですか」
「そう、影虎という近所でも評判の立派な猫だ。ていうかご主人様違うからな」
「……猫がお好きなんですね……」
 絶望の影もくっきりと呟くアイリーンに危険なものを感じて、一人と一匹は後ずさった。影虎は体中の毛を膨らませて威嚇している。尻尾がモップだ。
「それならば仕方がありません。わたしはプライドを捨てます」
「ぎゃあ!」
 和也は思わず叫んだ。アイリーンの頭部から毛むくじゃらの耳が生えたのだ。
「ご主人様が猫耳がお好きというなら致し方ありません。虫唾が走るほど嫌ですがお望みならしっぽも生やしましょう!」
「生やすな! 俺だって嫌だそんなもん!」
「なぜです! 猫好きの男性は猫耳も好きなはずです!」
 頭部の猫耳をぴくぴくさせながらにじり寄ってくるアイリーンを全身で拒否し、和也はやや死に物狂いな風情で説明した。
「いいか、猫好きだからといって猫耳が好きとは限らないんだ。第一人間……の形をしたものに猫の耳が生えていたからといって、それは猫ではなく猫の耳を持った何かにすぎない。俺が好きなのは純粋な生物としての猫であって、こういう」
 影虎を差し示す。
 影虎は威嚇する。
「猫そのものが好きなんだ。だから、俺は猫耳というアイテムを拒絶する。わかったか?」
 アイリーンは雷にうたれたようにフリーズし、がっくりと両手を付いた。みしり、と畳が手のひらの形に沈む。
「健気なメイドや猫耳に萌えない男がいるなんて……。わたくしはどうしたら新しいご主人様に認めてもらえるのかわかりません」
 どうやら猫耳は最終手段だったらしい。
 打つ手がなくなったアイリーンは自暴自棄のあまり畳に転がった。
「おい止めろ。畳がダメになる面積がどんどん増えていくじゃないか」
「わたくしはもう嫌です。何もかもが嫌です。壊すなら壊せ」
「なんだその突然の無気力。つうかお前オタクが嫌いなくせにどうして誘惑にメイドとか猫耳を使うんだよ。矛盾してるぞ」
 アイリーンは転がりながらぼそぼそ喋った。
「わたくしにはそれしか悩殺の手段がないからです。他に何にもできないクズでございます」
「今度は自虐か。予想外な機械だなお前は」
「手首とか切ります」
「脅しか? 切るなよ、皮膚のスペアないんだろ」
「じゃあどうしたらいいんでごじゃいまちゅかー!」
 畳にうつぶせになって手足をバタバタさせるので、積んであった本の幾山かが雪崩を起こした。影虎が怯えて和也に上る。
「止めろってコラ埃が立つだろ。しかも日本語おかしくなってるぞお前」
「ご主人様が欲しいのです」
「だから……」
「電力と屋根が欲しい……」
「なるほど」
 なかなか切実である。
 和也は影虎をなだめながら必死で考えを巡らせた。この場合、どうしたらよいものか。
 ほどなく和也はため息とともに告げる。
「わかった」
 アイリーンは承諾の意味を捉えられず顔を起こした。
「ご主人様にはならないけど、条件付でここに置いてやるよ」
「本当ですか?」
 こころもち目を輝かせたように見えるアイリーンに、和也は不承不承頷いた。
「母さんがあれだし、お前はこれだし、俺にはこうする以外いい方法を思いつかない」
「ありがとうございます!」
 三つ指を突いて古風にお辞儀をする彼女に、和也は条件を突きつけた。
「ただし、それはお前の本当の持ち主が現れるまでだ。前のご主人様は亡くなったって言ってたけど、お前を相続する人間くらいいるんだろ? 逃げてきたって言ってたしな」
 製作者の意図はともかく、これほどのアンドロイドを逃がしたままにしておくはずはない、きっと探しに来てくれるだろう、と和也は考えたのだ。それまでの辛抱なら、できなくはない。追い出すのが無理なら、迎えを待つまでだ。
 そんな和也の問いかけに、アイリーンはぴしりと静止した。わずかに震えてもいるようだ。
「あれ? 相続人はいないんだっけ?」
 アイリーンはうんうんと首を上下させた。
「それともいるのか?」
 アイリーンはううんううんと首を左右に動かした。
「言葉で言え」
「……そ、そう、相続人は……い、いま、いまいまいまいま」
「壊れた!」
「わたくしは正常です」
「じゃあ答えろよ。お前の今の法的な持ち主はいるのか?」
「い……いま……いまいましい」
 一瞬凶相を表したアイリーンに、和也は彼女から一メートルほど遠ざかって壁にぶつかった。和也の頭から放り出された影虎が「うにゃにゃにゃにゃ」と文句を云いながら布団の隙間に潜り込んでいった。
「ちょっと怖いぞお前」
「いいい……いま、……す……」
 それだけ言い切るとアイリーンは物欲しそうに部屋を見回した。
「今ので体内エネルギーを三十%消耗しました。補給が必要です」
「……何だかわかんが、お前が持ち主を大嫌いなことはよくわかったよ」
「ありがとうございます」
 言いながらアイリーンは腹の辺りを探ってコードを取り出した。彼女がコンセントに彼女のプラグを差し込むと、ブレーカーが落ちて階下から祥子の叫び声が聞こえてきた。
 アニメの録画に失敗したと泣く祥子を見て、和也は「こいつとは以外に仲良くできるかもしれない」とアイリーンを少し見直したのだった。



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 窓の隙間から冷たい風が入り込みさっと和也の額を撫でた。
 影虎が朝の散歩に出かけたらしい。
 影虎は賢い猫だ。鍵さえかけなければ引き戸という引き戸はすべてその肉球のついた前足で開けてしまう。ただ惜しいことに、閉めて行ってはくれない。
 影虎の出て行った後を惜しむようにカーテンが舞い踊っていた。
 和也は半ば眠りながら枕元にあるはずの目覚まし時計を探った。和也の部屋はよくいえばシンプル、悪くいえば質素なもので、布団とちゃぶ台のほかには雑然と本が積まれているばかりだ。ゆえに布団の周りには目覚まし時計くらいしかないはずだった。
 が、和也の手はつるつるしてむちむちした冷やっこい何かを掴んでいた。時計ではない。
「なんだ、これ……」
 和也は寝ぼけ眼のままふわふわかさかさしたものを引っ張る。答えはすぐに落ちてきた。
「それはわたくしの太ももです」
「……。……。ふともも?」
「ちなみに今引っ張られたのはわたくしのスカートとペチコートでございますご主人様」
 和也は寝転がったまま目を開けた。アイリーンの鼻の穴が見える。位置からして、布団の脇に正座しているらしい。
「何でお前そんなとこにいるんだ」
「ちなみに今のご主人様の行動はセクハラです」
「機械にセクハラするほど落ちぶれてないから安心しろ。ご主人様止めろ。ちなみに寝てる男の枕元に座り込むのはセクハラにはならないのか? すげえ不快なんだが」
「もうしわけありません。ご主人様が眠ってらっしゃる間手持ち無沙汰で」
「豚でも沙汰でも勝手に持ってろ。……時計は?」
「……」
 アイリーンはしずしずと半壊した時計を両手に乗せて差し出した。
 和也はのろのろ起き上がってしげしげとその物体を眺めた。
「……何、これ?」
「時計です」
「……俺にはかつて時計だったものの残骸に見える」
「言いえて妙です」
「妙だよ。何で時計がこんなことになってるんだ?」
 寝起きで霞がかかっているような頭に活を入れつつ、和也は憤ってみせた。
「ですから、手持ち無沙汰で」
「お前は暇だったら時計を分解するのか」
「時々は。すぐに組み立てようと思っていたのですが、完全に修復する前にご主人様が目覚めてしまわれたので」
「だからご主人様って呼ぶの止めろって言ったろ。何回言わすんだボケ」
「では何とお呼びすればいいのですかご主人様ご主人様」
「……今のわざとだな。嫌がらせだなこの野郎」
「わたくしの性別は女性に設定されておりますご主人様ご主人様ご主人様」
 和也はため息を大量に吐き出して半身を起こした。
「和也でいいよ。和也と呼んでくださいアイリーン様」
 振り返ると、にっこりと笑ったアイリーンが嬉しげに口を開いた。
「はい。和也様」
「……様も止めろ。ところで今何時だ?」
「わたくしの体内時計では現在八時四十八分十二秒です」
 和也はそれを聞くと脱力して枕に顔をうずめた。完全に遅刻である。
「どうなさいましたか?」
「遅刻だ」
「そうですか」
 全く危機感のみえないアイリーンに、和也の怒りは勃発する前に消滅した。これはアンドロイドで、機械で、イレギュラーな存在だ。感情を乱されるな。受け流せ。
 和也は必死で自分をコントロールし、彼女に注意事項を与えた。
「いいか、目覚まし時計は壊すな。いや、時計だけじゃない、暇つぶしに何かを壊したり組み立てたりすることは今後一切禁止する。わかったな?」
「……はい」
 やや寂しそうにアイリーンが返事をした。
「よし」
 和也は布団から出ると、洗面をすませに廊下へ出た。
 閉じるドアの隙間から、アイリーンが半壊した時計を大事そうに部屋の隅へ寄せるのが見えた。
 少し言い過ぎたかなと反省しながら階段を下りると、そこには祥子が待ち構えていた。
「遅いじゃない! 何度か声かけたのよ」
「あーそりゃあお気遣いどうもありがとうございます」
 和也は皮肉を込めて言った。
 普段祥子が和也を起こすことなどまずない。
 和也が寝坊して遅刻するのは彼自身の責任であり、祥子のせいではない。そのことを、和也は身をもって知っていた。「なんで起こしてくれなかったんだよ!」というセリフを言わなくなってから、既に十年近くが立とうとしている。
 祥子はそんな皮肉に怯んだ風もなく、
「もう、拓真さんにアイリーンちゃん紹介しようと思ったのに、和也が遅いから拓真さん会社に行っちゃったじゃない。すっごく残念そうにしてたのよ」
 和也が学校に遅刻していることについては気づいてさえいないようだった。
「そうかい」
 息子の気のない返事に、祥子は「もううううう」と吼えた。
「拓真さん、まだ半信半疑なのよ。早く実物を見せたかったのにいい」
 拓真とは和也の父である。生真面目な銀行員の仮面を被っているが、家では部屋にこもってギャルゲーばかりしている。祥子とはよく、和也の理解したくない話題で盛り上がっているが、和也との接点はあまりない。
 たまに怪しげなゲームや雑誌を勧めてくるときくらいしか話すこともない。
 そんな父親がアイリーンの存在を知ったらどうなることやら。和也はなるべく考えないようにしていたが、陰鬱な気分を持て余し気味だった。
「で? どうなの?」
 溢れ出さん好奇心を少しも隠そうとせず、訊ねる祥子。
「どうなのって何がどうなんだ?」
 うんざりした顔を隠そうともせず、和也は問い返した。
「鈍いねっ! もうっ。どうっていったら、アイリーンちゃんのことに決まってるじゃないっ!」
 うんざりした顔をこれ以上うんざりできないくらいうんざりさせて和也は祥子を無視した。洗面所に向かう道すがら、「どうなの、どうなの」という祥子の声が背後にまとわりついてきたが、蛇口を盛大にひねって水音でごまかした。
 洗面をすませたころには、祥子は諦めて自分の部屋にこもってしまったようだった。近くイベントがあると言っていたから、また実用外デザインの洋服でも作っているのだろう。
「今ので精神力を三十%消耗した」
 和也は呟いて朝食をとりにキッチンへと向かった。どうせ遅刻だ。二時限目から行くなら、ゆっくりしてもいいだろう。そんなことを考えていると、ふといい香りが鼻をついた。卵が焼ける匂いだ。キッチンが近づくにつれて、トーストとバター、コーンスープの匂いも加わる。
「……何してるんだ」
 声をかけると、白いエプロンもまぶしいアイリーンがくるりと振り向いた。
「朝食の用意をしております」
 テーブルの上には、豪華とはいえないが旨そうな食事が揃っている。どうやら自分のために用意されたらしいそれらを前にして、和也はとまどいつつ椅子に座った。
 アイリーンが注文をとる。
「お飲み物は何になさいますか? コーヒーと紅茶と緑茶とオレンジジュースに牛乳がご用意できます。お望みならカフェオレ、オレンジオレなど」
「コーヒーをください」
 それ以上飲み物を列挙されてもとうてい選び切れはしない。アイリーンはてきぱきと戸棚から彼のカップを取り出した。
「あれ? どうして俺のカップがそれだってわかった?」
 何気なく訊いて後悔した。
「和也様の唇の形とカップの飲み口の減り具合を比較して推測しました」
「怖い。すごいようでいて怖いぞお前」
 和也はアイリーンの性能にかすかに怯えを抱きながらコーヒーを飲んだ。彼女がいかに高性能であろうともインスタントをドリップの味にはできないわけだが。
「でもお前、料理できるんだな。これ食っていいのか?」
「はい。和也様のためにお作りしました。どうぞ召し上がってください」
「いただきます」
 朝食は旨かった。トーストは程よく焼け、バターまで塗られているし、卵の火の通り方も申し分ない。コーンスープにいたっては、おそらく缶詰の粒コーンを使ったと思われるが、どのように加工すればこんな味になるのか和也には想像もできない。
 数ヶ月ぶりに食べるまともな朝食に、和也は感動を禁じえなかった。
 熱いスープが目覚めたばかりの体にしみこんでいく快感に、思わず呟く。
「旨い」
「うれしゅうございます」
 アイリーンもまた、呟くように言った。
 目覚まし時計を壊されたことくらい、学校に一時間遅刻したくらい、何ということもない。アイリーンの用意した朝食にはそれらを美しく水に流すだけの力があった。
「お前、料理以外には何ができるんだ?」
 やや上機嫌になりながら和也がたずねる。
「一通りの家事はこなせます。掃除、洗濯、炊事などやらせていただきます」
「前の主人のところでも家事をしてたのか?」
「はい、博士の身の回りのお世話はわたくしがしておりました」
「博士?」
 日常聞きなれない言葉だ。とすると、その博士とやらがアイリーンの製作者なのだろうか。そう訊いてみると、案の定アイリーンは頷いた。頷きはしたが、昨日現在の持ち主を訊かれた時と同じく、非常に嫌そうだったので和也はそれ以上深く訊ねないことにした。
「ありがとうございます」
 心からほっとしたように礼を言う彼女に、果たして心らしきものは存在するのか、和也は考えかけて止めた。



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 学校は家から自転車で三十分のところにある。
 自転車に乗り込む和也の後に付き従うようにするアイリーンに、まさかついてくるつもりじゃないだろうな、と冗談半分に言うと、
「はい、わたくしは和也様に付き従いとうございます」
 と真面目な答えが返ってきたので和也はハンドルの間に頭をぶつけた。
「大丈夫ですか?」
 痛む額をさすりながら、アイリーンの心配は無視して命令する。
「いいか。絶対についてくるな」
 しかし彼女は了承しなかった。
「わたくしは和也様のそばにいとうございます」
「いや、だからな、ついてくるな、て言ってるんだよ」
「わたくしは和也様のお役にたちたいのです」
「嫌がらせか? 嫌がらせなのか? 俺が何か気に障ることでもしたか?」
 何が何でもついてきそうな彼女に、和也は半ば泣きそうになった。こういう展開は予想していなかった。昨日の様子からすれば、家でごろごろしているだろうと軽く見ていたのだ。まさか学校についてきたがるなどとは、予想もしなかった。
 メイド服のアンドロイドにストーカーされるのは、未来から来たターミネーターに狙われるのとどちらが恐ろしいだろうか。和也にはわからなかった。この場合、身体的生命に危機はないが、社会的生命が危ない。
 腕時計を見ると、もう十時を回っている。
「あああ、もう行かないとやばい。いいか、ついてくるなよっ!」
 言い捨てるようにして、自転車をスタートさせた。登校時間を過ぎているせいか、いつもより人が少ない道を、いつも通りに漕ぐ。坂に差し掛かり、ペダルがぐんと重くなるのを体重をかけて押さえる。もうすぐ下り坂になるな、というとき、背後に気配を感じた。より正確にいうと、全力疾走する足音を聞いた。
「気のせい、気のせいだ。俺ったら昨日寝不足だから幻聴だ」
 実際は寝坊したおかげで睡眠時間に関してはいつもより多いくらいなのだが、和也はがんばって現実から逃避した。全力で自転車を漕ぐ。背後の足音からをも逃れるように、必死になって漕いだ。
 が、足音は止まない。それどころかくっきりはっきりと和也の耳に「どっどっどっど」という音を届けてくる。マラソン大会が近いアスリートの練習とかち合ったのではないかという甘い希望は途絶えた。アスリートは、こんな馬が駆けるような重量感溢れる駆け音は出さない。
 嫌な予感と共に振り向いて、それが的中したことに慄いた。
 自分のやや後ろを、メイド服を着た女が髪を振り乱しながら疾走している。
「あっ、うああああああ」
 叫び声というには低すぎる声は、アイリーンの存在よりも自転車のハンドル操作を誤ったことに対して発せられた。
 自転車を走行中、余所見をするのは大変に危険である。
 折りしも下り坂に差し掛かったころ。
 和也は自分の過ちを噛み締める表情のまま自転車と共に坂を転がり落ちたのだった。
「……いってぇ……」
「大丈夫ですか、和也様」
 アイリーンが和也の上から自転車をどけてくれた。
 和也は痛む体を起こす。彼と自転車と彼女は坂の半ばほどに蹲っていた。どうやら最後まで落ち切らずにはすんだらしい。
「お怪我はありませんか」
「平気だ。ちょっとぶつけたくらいで……」
 埃にまみれた制服のあちこちを払ってくれるアイリーンの甲斐甲斐しさに、和也は却って怒りを煽られた。
「お前何でついてくるんだ? ついてくるな、て言ったよな、俺」
「申し訳ありません。でも、わたくしは、もっと和也様のことを知りたいのです」
「キモッ!」
 残酷な一声に、アイリーンはわずかに身を引いた。
 心なしか青ざめたように見える彼女に、和也の中に反射的な罪悪感が湧き上がる。
「……も、申し訳ありません。そこまで、お嫌だとは思いもよりませんでした。部屋に戻って、大人しくしております」
 蒼白な顔も哀れげに、悄然と立ち上がり、とぼとぼと家路を辿るアイリーンに、かける言葉を探して、何も思いつかない自分に、焦燥感も加わった。
「あ、アイリーン」
 思わず呼びかけたが、言葉に詰まって沈黙が訪れる。
 彼女は立ち止まったものの、振り返らない。
 和也は必死で考えた。この場合何と言ったらいいものか。大体、いきなり「お役にたちたい」「あなたを知りたい」と言われて戸惑わない男子高生がいるものか。一体どうしたらこの場が丸くおさまるだろうか。ぐるぐる回る頭の中で、アイリーンがとにかく何かをしたがっている、ということだけはわかるような気がした。
 アイリーンにできること。和也のためになること。
「悪いけど、俺が帰るまでに、掃除と洗濯、しといてくれるか。そしたら、俺、すごい助かる」
 やっとそれだけ言えた。
 アイリーンはゆっくりと振り返って、「はい」と小さく返事をした。


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